2008年の雑誌のコラムに、麻生首相と漢字について「たいして難しい漢字でもないのに、読むことができないのは、新聞や雑誌を若い頃から読んでこなかったからじゃないか」とあった。腑に落ちる解釈だ。
新聞や雑誌を読む習慣がない人物が政治家になり、首相になって権力を握っていたかもしれない日本の政治。新聞や雑誌に書かれているもの全てが真実でもなく正しいわけでもないが、世の中の出来事の概要や歴史的位置づけなどを知る参考にはなろう。左寄りだの右寄りだのメディアによってクセがあるが、それを承知して読めばいいだけ。
別の言い方をすると、世の中の出来事の概要や歴史的位置づけなどを知る必要を感じないで生きてきた人物が、政治家になり、首相になっているかもしれない日本の政治。
新聞や雑誌を読むことの意味は、ほかにもある。それは、客観的な判断の基準を身につけることができること。主観的な判断基準は誰でもが持っていて、多くの場合は主観に従って判断しているのかもしれないが、主観的判断が客観的に妥当かどうかは別問題。個人の生活におけるモノごとならば、個人の責任において判断すればいいので、主観で判断しても構わないだろうが。
例えば、紫色という色は、印刷では赤インキと青インキを様々な比率で混ぜ合わせて出す(黒インキや黄インキを加える場合もある)。だから紫色といっても、ほとんど青に見えるものから青っぽい紫、青みがかった紫、赤みがかった紫、赤っぽい紫、ほとんど赤に見える紫まで幅広い。どこかで紫色を目にした時に、その赤と青の比率がどのくらいなのかは、各種の紫色を知っていなければ判断できないだろう。
例に挙げた紫色を財政政策に置き換えてみると、誰かが提言する財政政策を評価する場合、自由放任と政府統制を両極とするモノサシが自分の中にあれば、そのモノサシのどこら辺りに位置するのか見当がつく。紫色を歴史観に置き換えてみると、誰かが主張する歴史観が、自由主義と国家主義を両極とするモノサシのどこら辺りに位置するのか見当がつく。
そうしたモノサシを持つためには、新聞や雑誌で様々な出来事、意見・主張に接することが役に立つ。幅広い情報に接し続けることで、主観とは別に、対象を客観的に評価するモノサシを持つことができるようになる。別の言い方をすると、そうしたモノサシを持たないままでは、たまたま目にした何かに影響されてしまうことにもなる。主観だけが頼りなのだから、自分の思い込みの強さだけが自分の主観を支えることになるという循環の中に閉塞してしまう。