望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

学問の領域と政治の領域

 2015年に米国などの日本研究者187人(当初)が発表した「日本の歴史家を支持する声明」の文中に、「多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、いまだに難しいことです」とあり、“歴史認識”の問題が日本にだけあるわけではないことを認めている。が、日本だけが槍玉に挙げられることについては何も語らない。

 声明は不正義の例として「第2次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに40年以上」かかったことや、「アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに1世紀」かかったが、「人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くって」いるとする。

 さらに「米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、19・20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません」とする。確かに米国、ヨーロッパ諸国は、世界の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分には取り組んではいない。

 そういう認識なら、歴史認識の問題で日本だけが槍玉に挙げられることに興味を持つのが日本研究者だろう。各国が「クリア」している歴史認識の問題を、日本が「クリア」できていないとすれば、戦後処理に問題があるのか、政治体制に問題があるのか、社会的な問題があるのか、比較研究の格好の材料だ。それは日本研究をより深めるために有効だろう。

 声明は「今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です」と促す。日本に歴史認識で問題があることを前提とした“助言”だ。韓国、中国が外交問題化していることが大きく影響して、日本における歴史認識がクローズアップされていることを日本研究者は承知の上で声明を出したのだろう。

 その韓国、中国にも、例えば、朝鮮戦争の開戦責任など歴史認識の相違はあるし、自国が関わる「慰安婦」絡みでは隠していることがあり、中国が共産党支配に都合の悪い歴史を封じ込めていることも知られている。国が異なれば歴史認識の「正しさ」が異なるのは当然だが、自国の「正しさ」を主張するために他国を貶めることも珍しくはない。

 だからこそ歴史研究は様々な政治から距離をとり、政治などに左右されない事実だけを歴史から抽出することが研究者の重要な役割となる。そうした確かな事実だけを積み重ねて研究者が再構築した過去を論じる時に、初めて研究者の主観が示されるべきで、事実認定に研究者の主観を付着させるべきではない。政治などに左右されない事実を抽出することは、社会に冷静な判断材料を提供することにもなる。

 なお、日本では15年戦争を肯定したり、旧日本軍を含め戦時体制を懐かしがるような動きは根強く存在したし、「戦争を知らない」世代が多数になるにつれて、そうした見解の表明への抵抗が薄れているようにも見受けられる。そうした風潮への批判はあって当然だが、それは学問の領域ではなく、政治の領域だ。