望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

死人相手のビジネス

 例えば東京の浅草界隈を歩くと、そこここに寺がある。ゆったりした敷地に構えている寺はなく、ほとんどは寺本体ぎりぎりまでマンションなどが建っている。地方では、ゆったりした敷地の一郭を駐車場にしたり、保育園などにしている寺も珍しくはないが、浅草では、都内ということもあってか大半がマンションだ。

 寺は何のためにあるのか。葬式、法事……死人相手のビジネスだ。生きている人間を相手にするのは観光名所になっているところぐらいか。拝観料が入るしね。寺が全て拝金主義というわけではなく、定期的にお説教などを行っているところもあり、悩み事の相談に応じているところもあろう。だが、寺の一般的イメージを変えるほど、多くの寺が現実社会ー生きている人々に働きかけているとは見えない。

 仏教が現在のように、その時の政治に無害なものになったのは、江戸時代の寺社管理が有効で現在もその枠組みを引きずっていること、つまり檀家を掴まえていれば坊さんは食うに困らないから“余計なこと”をしなくなったからだろう。坊さん連中が骨抜きになったのは、いわゆる信仰心(あったとして)が現世利益に負けたからだといえる。

 仏教における信仰心とは何か。そもそも仏教は何を目指した宗教なのか。生きることの様々な苦しみ、悩み、それらから解き放たれ、心の平安を得ることーであれば、世の中の動きとは無関係に個人の心の中だけに仏教はあればいいことになる。衆生済度なんて言葉もあるから、生きている人々への関心を仏教は持っていたのだろうが、現在の仏教のイメージからは、例えば世直しのために何か役に立つ宗教とはとても思えない。

 世直しといった大風呂敷を広げなくとも、例えばホームレスの生存を支援するためにお寺さんが活動しているという話も聞かない。ホームレスの人々に、仕事の世話などはできまいが、握り飯1個でも差し出したとか、お堂の片隅に泊めてあげたとかの話も聞かない。行き倒れれば、おそらく行政から要請されてお経の一つくらいはあげてやるのだろうが。