望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

個別と全体の混同

 SNSには大量の書き込みが流れ続けている。発信者は企業や団体なども多くなったが、おそらく大半は個人によるものだろう。個人によって発信された書き込みは個人の見解を示すもので、個別の事例であり、社会の全体的な傾向を示すものではない。ある個人の見解を一般的な事例だと見なすのは適当ではないだろう。

 SNS上の個人の書き込みを社会の傾向や世論を現すものとして、引用して論じる文章が珍しくない。それらは自説を都合よく補強する材料としてSNS上の個人の書き込みを利用するのだが、報道機関の記事にもSNS上の個人の書き込みを引用して記事の趣旨を補強している例がある。以前なら人々に取材して個別の見解を拾ったが、取材の手間を省いてSNSを「活用」して記事を仕上げていると見える。

 ある個人の書き込みが社会全体の傾向を示すと判断するためには、その見解が社会の多数派であることや、少なくとも過半数をその見解が代表していることを示す必要がある。統計的な処理が欠かせないのだが、手間を省くために安易にSNS上の書き込みを引用するのだから、そんな手間をかけるはずもない。

 個別の見解と世論とされる見解は、一致することもあれば一致しないこともある。SNS上の書き込みを引用する場合には、個別の見解か世論を代表する見解かを区別する必要があるが、そこらを曖昧にすることでSNS上の書き込みの安易な引用は成立する。個別と全体をうっかり混同すると、歪んだ認識を持つことにつながりやすい。

 よく見かけるのは、中国や韓国などの反日的な雰囲気を紹介する文章や記事に、中国や韓国における反日的なSNS上のコメントを引用することだ。それらのコメントが一般的なものか少数なのかを読み手が判断することは困難で、反日的な雰囲気が中国や韓国の社会に蔓延しているなどと受け止めたりする。

 また、SNSに流れる大量の書き込みは、書き手の素性の判別が困難なことが多い。誰とも分からぬコメントに対して一生懸命に批判を返す書き込みも珍しくないが、SNSという空間だから可能になる現象だ。さらに、外国勢力が日本の世論の分断、混乱、不一致を拡大する目的で日本国内の個人を装っている可能性もあり、意図的に「ひどい」書き込みで荒らしている可能性がある。匿名性は武器になる。

 個人の見解の安易な活用は、テレビのニュース映像における街角の人々のコメントの利用にも見られる。それらのコメントも個人の見解であり、世論を示すものとは限らないが、ニュース映像に組み込まれると、社会の代表的な反応を取材したかのような印象を与える。放映前に編集作業が行われるので、視聴者が特定の方向に誘導される可能性も否定できない。個人の感想を紹介して、それが全体の傾向を現すものであると装うことは以前の通販番組などで使われた手法だが、現在は、個人の見解であると明記しなければならないと法規制された。