望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

名もない白い花

 道端に「名もない白い花が咲いていた」などの表現を見聞きすることは珍しくない。ありふれた表現で、昔からエッセイなどではよく見かけ、現在でも放送メディアの風景描写リポートなどで聞くことがある。花など植物に関する知識は乏しいが、きれいな花を見かけて心を動かされた人が小さな感動を伝える言葉として使われてきたようだ。

 この「名もない白い花が咲いていた」などの表現は正しくない表現だ。正しくないのは「名もない」という部分。日本を含め世界中で植物学者たちは、各地を歩き回って植物を採集し、細かく観測して分類・系統化した。その時には名前がつけられる。だから、「名もない」花があったとすれば、それは新種だということになる。もちろん世界には未発見の新種の花はあるだろうが、人々の日常空間にはまず存在しないだろう。

 「名もない白い花が咲いていた」式の表現は正しい表現でないが、受け入れられてきた。人々は日常の空間では言葉の厳密さに固執せず、むしろ「名もない白い花が咲いていた」などの表現で、その人が感じた小さな感動が伝わるのだから、重宝してきた。白い花が何かとの認識を共有するには「名もない」は不適切だが、花に心が動いたとの情緒を共有するには問題はない表現だった。

 表現は正しくあるべきだろうが、情緒を伝えることも表現の重要な役割だ。とはいえ「名もない白い花が咲いていた」式の表現が多すぎる社会は、情緒的な人が多い社会と見なされよう。情緒を伝えつつ、正しさも備えている表現が求められる社会が理想だろうが、言語表現は人々の意識と関わるので、簡単には変わらない。

 「白い花が咲いていた」だけでも情緒を伝えることはできるだろうに、なぜ「名もない」と付け加えるのか。花を個別の花として認識したなら、それぞれに名があることを意識するだろうが、白い花が花一般を表しているとすれば個別の名は必要ないと判断することはあり得る。つまり、見た人は花の美しさに心を動かされたが、個別の品種として認識したのではなく、花一般としか見ていない。

 「花の美しさというものはない。美しい花がある」とは誰かの名言だが、個別の花を認識せず、花の美しさを感じる人がいるから、「名もない〜」式の表現が存在した。そういう人には、白でも赤でも黄色でも花は花であり、大輪でも小粒でも花は花でしかなく、しかし、花を見て心が動き美を感じている。そういう人には「名もない」との言葉に実感があるのだろう。

 対象が花だから「名もない」式の表現は許容される。もし人間に対して「名もない人が歩いていた」などと表現すると、批判されるだろう。人は固有名詞で呼ばれるべきで、普通名詞で扱われるのは統計などに限られる。「名もない」との表現は対象に対する関心度合いを示す言葉であり、対象を観察して分類するという科学的態度が欠如していることも示す。