望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

事実と代替的事実

 世界では、一緒に革命戦争を戦った同志であっても、共産党が政権を握ったあとに粛清された人は珍しくない。政権に参加していた人物でも、粛清されると政権首脳の集合写真から、その人物だけが消されたりする。現在なら写真の修整は簡単だが、当時はフィルムの時代。修正したこと自体が知られてはならないこととされ、見事に巧妙に写真は修正される。

 もちろん、写真だけではなく文書類からも記録が消され、粛正された人物が、そもそも存在していなかったことにされる。粛清された人物が存在したという事実は、存在していなかったという「新たな」事実に上書きされ、粛清や路線変更などのたびに、それ以前の過去の書き換えが行われ続ける。

 事実を権力に都合よく操作するという願望は共産党にだけあるのではない。写真や記録など過去の修正は行わないものの民主主義国の政治家、政党も、自分らに都合よく事実を解釈することはよくあることだろうし、自分らの主張に好都合な事実の1断面だけを強調したりもする。政治権力が絡むと、事実の認識そのものが政治性を帯びる。

 数年前にトランプ大統領の上級顧問が「代替的事実(alternative facts)」という表現を使って、就任式に集まった人数はマスコミ報道より多いと主張した。勘違いや思い込みによる事実誤認など、客観的な事実と主観的な認識が異なることは誰にもあることだが、権力サイドによる「代替的事実(alternative facts)」という主張は、正直ではあるが、珍しい。

 権力サイドが望むような現実が常に存在するわけではなく、むしろ権力サイドにとって不都合であったり、不利であったりするのが現実かもしれない。政治とは常に現実に働きかける活動であり、客観的な事実を軽視するならば、的確な政策を講じることに支障が生じるだろう。

 権力サイドが、見たいと望む現実しか見ず、事実よりも「代替的事実(alternative facts)」を主張するのは、現実認識が主観に偏りすぎていることに加え、自分らの主張に不都合な事実を無視する必要があるからか。つまり、「代替的事実(alternative facts)」という主張は現実逃避であるが、政府権力が現実から逃避するなら人々は置き去りにされる。

 過酷な権力闘争の歴史もあって極端な「代替的事実(alternative facts)」に基づく体制を中国はなお続けている。権力サイドに有利な現実が創造される体制では、例えば「歴史問題」などに見られるように「代替的事実(alternative facts)」の主張は国外に向けても発信され、事実認識の混乱を広げている。