望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

相手を否定して貶める

 議論において、相手の発言がどんなに承服し難かったとしても、感情的になって相手に対する人格攻撃などに堕することは、その議論に負けたことに等しい。反則負けである。とはいえ、人は感情に支配される生き物なので、相手を感情的にさせることも議論のテクニックの一つか。

 相手の発言に存在する事実の誤認や解釈の偏りなどを指摘しつつ自説を主張し、相手を説得するのが、冷静かつ理性的な議論のスタイルなのだろう。だが、それには、自説に固執せず、客観的に自説も検証するという暗黙の前提を議論の参加者が共有している必要がある。

 そういう前提は、特に政治などに関する議論では希薄だ。むしろ、自説に固執し、自説に対する客観的な検証を許さず、相手の主張を否定し、さらには相手をも否定することで自説の「正しさ」をアピールしようとしたりする。相手の主張や相手を否定することと、その人の主張が正しいかどうかは無関係だが、政治などが関わる議論においては、その種の発言は珍しくない。

 むしろ、相互の主張に相応の根拠や正当性があるのが政治などに関する議論だ。自説に固執しないという政治家や活動家、運動者は非常に少ないだろうから、議論は相互の主張を一方的に言い合うだけになる。自説を客観的に検証したり、相手の主張に理解を示す姿勢は、議論を闘争とみなす政治などにおいては弱みになろう。

 相手の主張を否定することが自説の正しさになるというのは二者択一の場合だけである。AかBかの選択肢しかない場合、Aが否定されると、残るのはBだけになる。しかし、現実には政治の場においても「正解」は揺れ動いていて確かならず、さらに複数の「正解」があったりする。相手の主張を否定したとしても、否定した人の主張が正しいと自動的にはみなされない。

 対立する相手を貶めて自己の主張の正当性をアピールするという政治などにおける議論スタイルは特殊なものだ。だが、同様の議論(というより、互いに一方的に言い合い、否定し合う)スタイルは広く見られる。おそらく、客観的な検証に耐えることができない自説に固執するという未熟さのため、批判に耐えられないから相手を否定するしかないのだろう。

 批判と否定は異なる。批判に対する耐性が低く、批判を否定と受け止める人が、相手を否定することで反撃するのかもしれない。そうした議論は実は議論の否定もあり、議論の拒否でもある。そうした議論から発展的な見解が生まれることはまずないだろう。