望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

来世という仮説

 天国や地獄が本当に存在するのか、死後に神の審判が本当にあるのか、その答えは誰も知らない。生きている人間には死後の世界を知ることは不可能であり、来世や神の裁きが存在するとも存在しないとも判断できない。存在が不確かなものを存在すると主張するのは、信じるという行為になる。何を信じるかは個人の自由であり、天国や地獄、神の裁き、仏の救済から幽霊やUFOなど信じる対象は広い。

 天国や地獄、神の裁きなどが存在するとする宗教がある。それらの存在を、神の言葉を聞いたという預言者や開祖が主張し、それを信者は信じる。だが、いくら熱心に信じようと、それらの存在が客観的に実証されるわけではない。客観的に実証できないからこそ、信じるという行為が価値を持つというのが宗教の仕組みだ。

 神や天国、地獄、神の裁きなどが存在するという主張は仮説であり、おそらく人間が永遠に当否を判断できない仮説であろう。宗教はそれぞれ独自の世界観を有し、その世界観の中で信者は「善き」生き方を求められるが、その世界観も仮説である。絶対の真理を主張し、膨大な理論構築を行ってきた宗教もあるが、それは膨大な仮説の集積でしかない。

 宗教と比べて科学は真理の集積であるとされる。だが、科学的な真理とは、観測される現象を合理的に説明できる仮説が共有されたもの。共有されない仮説は世界には膨大に存在するのであるから、科学も宗教と同様に仮説に満ちている(科学的な仮説とは研究者の論文であり、厳しく検証されて否定されたり、検証もされずに無視されるものは仮説でしかない)。

 宗教や科学のほかにも仮説は世界にあふれている。例えば、マルクス主義新自由主義など様々な思想は仮説であり、評論家や政治家、メディアの政治・経済・社会・国際情勢などに関する先行きの見通しや予想も仮説であり、個人がSNSなどで発信する様々な主観による主張も仮説である。

 仮説に惑わされないためには、「そういう考えもある」という見方を常に心がけ、距離を取ることが有効だ。とりあえず否定も肯定も留保し、仮説を仮説として理解する。うっかり何かの仮説を真実だと受け入れると、天国や地獄の存在を信じることと同様に判断力が制約され、その仮説に反する情報を簡単に拒否したりする。

 科学を持ち出して自説を正当化する政治家や評論家らは多いが、「そういう考えもある」と見れば、世の中にあふれる仮説に振り回される可能性は低くなる。「そういう考えもある」との見方は、客観的な見方に通じる。だが、客観的な見方を行う人はそう多くはないのが現実世界だ。仮説も、信じるという行為に支えられているのだろう。