望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

肯定と否定

 いわゆる空飛ぶ円盤=未確認飛行物体(UFO)は実在するのだろうか。カメラ付きの携帯電話やスマホを所持している人が世界中で爆発的に増えたのだから、本当に地球にUFOが飛来しているなら、写真に写される機会も増えるだろうし、UFOを撮った写真がネットに世界各地から次から次に投稿されてもいいようにも思えるのだが。



 UFOの存在については、昔から論じられてきた。存在すると信じる人は、「これが証拠だ」と世界で撮影された各種の写真を示し、懐疑的な人は、それらの写真のトリックを暴いて、「さあ、本当に存在するという動かぬ証拠を見せろ」と要求する。英ネス湖ネッシーの存在をめぐる論争も同じような展開だ。



 UFOの存在について、地球人だけで論じても“限界”がある。存在するという仮説をいくら精緻に構築してみても、仮説は仮説でしかない。検証可能な観測データは今のところ存在しないのだから、存在肯定論者の旗色は悪い。UFOそのものを実際に皆に見せるのが、もっとも簡単で強力な存在証明なのだが、UFOを呼ぶことができるほど宇宙人と親しい肯定論者はいないようで、存在するという決定的な証拠はまだ提示されていない。



 一方で、UFOが存在しないという客観的な証拠もなく、存在しないという証明もできない。つまり、UFOについては、存在するとも存在しないとも客観的には断定はできないというのが現在の冷静な態度だろう。存在を信じることも信じないことも個人の自由だが、「結論」は宙に浮いたままだ。



 こうした“曖昧さ”を利用する言説がある。「UFOの存在を誰も否定できないのだから、存在の可能性が高い」などという話の進め方をする。時には「さあ、否定してみろ。できないだろう」といった調子になって、「存在を否定できないのだから、存在する」などと飛躍する。客観的な判断をめぐる論争ではなく、信念の強さの披露合戦になっては、相手の言い分をまともに聞かないほうが有利か。



 存在を否定できないということは、存在を肯定することを意味するものではないし、存在を否定できないと言うことは、否定論者の論拠の弱さを意味するものでもない。だが、自説を主張するために、存在を否定できないと相手が冷静に言った時に、それを利用して、相手を言い負かそうとしたりする光景は珍しくない。相手を言い負かしたところで、UFOの存在が立証されるわけではない。



 抽象的な議論などでは、意識していないと、この種の“曖昧さ”を利用した誘導を自説を優位にするために用いやすい。仮定をめぐる議論では、自説を有利にするために、都合のいい仮定を次々に提示したりして「ほら、私の言う通りになるだろう」などと勝ち誇ったりする。しかし、現実は仮定通りになるとは限らず、こうした議論の底の浅さを、現実に直面した人は思い知らされたりする。