望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





事実と認識

 ある問題について考える場合、直感的に善悪の色づけをし、その直感に添うような論を組み立てることは珍しくない。まず冷静に、その問題に関する客観的事実を知ることから始め、どのような事実で構成されているのかを理解することを基本として、それから、自分の考えを組み立てていく……のが望ましいのだろうが、それは誰にでもできることではなさそうだ。



 直感的に善悪の色づけをするということは、先入観を持つということである。先入観を持たずに臨むことは理想的だろうが、先入観を持たない人間は幼い子供くらいだろう。それまでの人生で蓄積した経験、知識などによって人間は先入観(予断)を持つ。一方で、その先入観に対して意識的な検証を行うことはほとんどない。自分の中で確立されたものが先入観であるからだ。



 先入観は強いものである。ある問題について、客観的事実に基づいた新たな論が示されたとしても、それが自分の先入観と異なる場合に、すんなり許容する人は少ないだろう。熱心な人ならば、示された客観的事実を自ら検証し、事実を確かめてから、自分の考えを修正することもあり得るかもしれないが、そんな人は多くはない。自分の先入観とは異なる論に背を向ける人のほうが多いだろう。



 客観的な事実の尊重が論の基本であることは多くの人が知っている。だから、マスコミやネットに溢れる多くの主張は、その主張の“正しさ”を支える事実を散りばめて論を展開し、主観に偏らないものであることを装う。が、そこで示されている事実が、その主張に都合のいいものばかりを集めていることは珍しくない。その主張に不都合な客観的事実がどれほどあるのかを知るのは、専門家ででもなければ容易ではないだろう。



 こうした、自説に都合のいい“事実”ばかりを集めた主張は、事実に主観(感情)が交じっている。事実は客観的なデータや根拠を示して述べ、主張する時にも主観に偏りすぎず、客観性を忘れないことが、理性的・知性的な論の装いとなろう。事実を例示するときにも主観を交え、さらには感情も交じるようだと、相手を説得することは困難だろうし、自分とは異なる相手の先入観を固めさせることにもなろう。



 いろいろな問題について常に客観的事実を検証することは、誰もが行うことではないだろうし、客観的な事実を知ることに意識的である人も少ないだろう。つまり、多くの人は自分の先入観に添う情報や主張を受け入れやすく、自分の先入観に反する情報や主張は排除する。これは自分の先入観を強化する作業でもある。



 客観的な事実を尊重し、知ろうとすることは、先入観などにとらわれない認識を持つためには基本となる姿勢だ。客観的な事実を知ることは、主観を抑えて事実に謙虚になることでもある。それが、知の誠実さを支える。ただ、人間社会は主観のぶつかり合いで、感情で動くものであることも確かで、先入観に突き動かされる人も多く、そうした人々には客観的事実などはたいして“意味がない”のかもしれないが。