街中で奇妙なデザインの車を見かけることが多くなった。例えば、「C-HR」は過剰な甲羅をつけて走っているようにも見える造形で、これは何だと注目を集める存在感があることは確かだが、何らかの機能性を感じさせるデザインではないし、空力などからの必然性も感じさせない。
街中に大量に“増殖”している「プリウス」も奇妙なデザインといえる。ライト類の造形などは目立たせることのみを目的にデザインされているようで、LED採用によりデザインの自由度が拡大してデザイナーの創造意欲が掻き立てられたことは伝わってくるが、あのデザインに到達しなければならなかったとの必然性は希薄だ。
美醜の判断は主観により異なるし、大量に売れているのだから、あれらのデザインを好む人も多いのだろう。だが、絵画などの美術品なら、どんな奇妙なものでも気に入った人が自宅に飾っておけばいいが、車は道路という公共空間を走るので、万人の目にさらされる。見るたびに違和感を感じさせられる車が増え、見慣れた都市空間に微かな緊張をもたらしているようでもある。
車のデザインは機能性を重視すれば、どれも似たようなものになる。例えば、エンジンの搭載位置や定員、車高などの外寸、トランクの有無などを決め、燃費を重視するなら空力に配慮しなければならず、結果としてフォルムは同じになろう。そうした制約の中で美しさと個性を表現するのがデザイナーの腕の見せ所だったはずが、デザイナーの暴走とも見える格好の車が増え始めた。
生産工程にロボットが導入され、部品は世界規模で調達し合うようになってメーカーによる車の品質に大差がなくなった現在、デザインで明確に個性を主張することの重要度が増しているのだろう。デザインにも流行があり、ラインや面で美しさを表現する手法は時代遅れで、意味のない無駄なラインや面の組み合わせで造形することが世界的にも流行っている。
そういえば「ジューク」も奇妙なデザインだから、トヨタのデザイナーだけが「新しい」造形に積極的とはいえない。BMWがヘッドライトなどを自由な形にデザインし始めたあたりから世界の車のデザインは、セダンはセダンらしく、クーペはクーペらしく、ワゴンはワゴンらしくなどという既成概念から「解放」されたのかもしれない。
車が普及し、単なる移動の道具になったことも影響している。どれを買っても大同小異だとすれば、購買意欲を刺激する見た目が重要になる。そういえば消しゴムは機能性だけなら四角でいいだろうが、おもしろ消しゴムは自由な造形で売る。車のデザインも機能性や必然性よりもキャラクターを立てて、目立ってナンボと訴求する商品に移行したのだろう。おもしろ車の時代か。