望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

見通す

 竹中労さんの「聞書・庶民列伝ーー牧口常三郎とその時代」が三一書房から上巻のみ刊行されたことがあった(原著は1980年代半ばに4分冊で刊行)。牧口氏とは創価(教育)学会の初代会長。80年代の創価学会批判に対して弁護役を買って出たとの見方もあったが、竹中さんの狙いは別で、戦時中に獄死した牧口氏の生涯をたどることで、戦争とは何かを、無告・無名の庶民をその自分史に即して描き、ゆがめられた歴史を書き直そうとした。創価学会に距離を置きつつ、庶民の宗教としての原点回帰を問うている(権力を目指す在り方を批判している)。

 構想半ばで終らざるを得なかった連載をまとめた本で、50人以上のインタビューを割愛せざるを得なかったことが読者としても悔やまれるが、08年の現在でも考えさせられる言葉が散りばめられている。

 原著の第4部から少しだけランダムに引くと、例えば「なぜかこの国では、人々は“宗教と平和”しか語らない。先験的に・紋切型に、宗教即非暴力平和主義と。いま、世界を二つに分けている最も大きな力は、(階級ではなく)宗教である。たとえば『イスラム過激派』(略)。国際紛争の舞台には、武器をとって闘う信仰者が立っている。是非を言うのでは、ない。日本の宗教者は真剣に、そのことの意味を考えねばならぬのだ」。
 イラクで、アフガンで自爆する人々を、どれだけの日本人、宗教人が人間として捉えているだろうか。あえて死を選ぶ人を支えるもの、思いは何か。他人の死を容認し、実行するまでに大きな苦悩、迷いがあっただろう。テロリストのレッテルを貼って片付けられがちだが、テロリストも1人の人間である。死に駆り立てたものは何か。

 例えば「公明党自民党と合体し、『現実政治』の桧舞台に、一つ二つの陪食大臣の椅子を得る(略)。かくて信仰は、党によって失われる」。
 公明党自民党と連立して、創価学会の人々はどれだけ“幸せ”になったのか。権力に加担することで、現状追認を避けられまい。変革ではなく、現状追認を優先することは、宗教団体としては衰亡への一歩だろう。選挙で優勢を示すことが宗教的達成に結びつく、ことはあるまい。「かくて信仰は、党によって失われる」という言葉は重く、きつい。

 例えば「大東亜戦争を肯定するのは、この国の革新系政治家・知識人・ジャーナリストの禁忌である。弁護の余地なきものは、存在しない。どのような凶悪犯人でも、法の下に平等であり、弁護士を選ぶ権利がある。『戦争』も、とうぜん弁護されるべきではないか? だが、『平和』運動家を自認する人の多くは、戦争を肯定したものを肯定することすら、ヒステリックに拒絶する」。
 戦争指導者等は間違ったし、その責任はある。だが東條の意のままに日本人が動き、巻き込まれたというのなら、戦前の日本人は人間ではなく人形であったと考えるしかない。現実は違う。人間社会では「失敗」から学ぶことができるものは多いが、「失敗」を見ないようにする人も多い。
 社会全体が戦争に向う時、反戦・平和を主張できる日本人が、さて、どれだけいるのか? KYだなんて、雰囲気に流されることを正当化するのが日本人じゃないか、なんて言ってみたくなる。

 そこで「平和も戦争も、つきつめて人間の営為である。人間はその時代、自己が置かれた状況の中で、けんめいに生きようとする。誇りと勇気とを失うまい、他者に対しては、優しく誠実でありたいと。そのような人々、そのような兵士たち。戦争を正義と信じて死んだ、衆生の死の上にこそ、反戦の墓標は建てられるべきであるのに……」。
 善き人・正しき人だけを相手にし、悪しき人・正しくない人を切り捨てる……それで宗教が成立するはずがない。そもそも、善も正義もうつろうものであろう。良き人が悪しき行いをすることもあろうし、悪しき人が善き行いをすることもあろう。
 戦争は悲惨であるのに、なぜ人間は戦争を繰り返すのか。言い方を変えれば、戦争を繰り返すのが人間であるとすれば、反戦・非戦が現実的な力を得るためには何が必要か。

 「なぜ、唾を吐きかけるのか? 愚かな悲劇と呼び、『青年よ銃をとるな』と。人間を来り犯すものに対して、武装解除することが平和であるのなら、せめても絶対非武装・中立、『イワンの馬鹿』(トルストイ)の国に棲むがよい。極東の不沈空母、アメリカの核の傘の下にいて、おのれの頭の上には『原爆ゆるすまじ』。すくなくとも戦時下、人々はそのように怯懦ではなく、愚かでもなかった。劫火と飢餓の日々を、精いっぱいに生きたのである。庶民列伝『昭和篇』、牧口常三郎とその時代を、私はこのように括りたかったのである」。
 共産国家が消え、むき出しの資本主義が世界を覆い、格差が拡大する中で、人々は豊かになることにしか希望を持てない……はずがない。生きることはいつの世でも楽ではないが、それぞれの人生を精一杯生き抜く人たちがいる。「聞書・庶民列伝」は貴重な記録であるとともに、今、頑張って生きている人たちへの目を開かせてくれる本でもある。今日すれ違った、あの人にもこの人にも、語るに足る半生があるのだ。