望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

チョイワルおやじが、いっぱ

 こんなコラムを2006年に書いていました。

 ある雑誌が売り文句にした「チョイワルおやじ」。ある種の揶揄を含んで使われていた「おやじ」という言葉に、規範にとらわれない自分の生き方を持っている大人とのイメージを付与し,そうした生き方への憧れも含めてか,「チョイワルおやじ」は認知された。「ちょい悪なんて、とんでもない。責任のある大人なら、チョイでも悪は悪。だめだ」という批判もあったが、どうせファッションなんだから目くじら立てることはないというムード。

 この「チョイワル」、雑誌の中に留まっていれば流行り言葉の一つで済まされたのだが、ふと気がついて見回すと,チョイワルおやじがぞろぞろ目につく。ちょっと耐震偽装をやったおやじ、そんな建物を黙って建てて売ったおやじたち,ちょっと投資事業組合を使ってズルをしたり決算書をごまかして株価をつり上げたITおやじたち、ちょっと談合をして天下り先に配慮した防衛おやじたち、廃棄物をリサイクル品として売りさばいていた企業のおやじたち、アメリカに言われるままにちょっと牛肉輸入を再開したおやじたち、支払う時になって保険金を支払わなかった保険会社のおやじたち……等々。きっと、この社会にチョイワルおやじは無数に隠れているんだろうな。

 凶悪犯ではないのだろうが、タガが外れているという印象で、社会的責任などという言葉がむなしく見える、これらのチョイワルおやじ達。どいつも確信犯的に「ワル」をやったことが共通している。黙っていれば見つかるまいと世間を甘く見て、さらには、見つからなければOKとインチキをやっていた手合いばかりで、露見した後も,心から反省しているとの印象は薄い。やったことがまずかったのではなく、見つかったことがまずかったと思っているような印象のおやじたちだ。

 こんなに、おやじたちがいい加減では「チョイワル」という言葉が薄汚れて見える。目新しい流行のようでいて、実際は「チョイワル」おやじがそこここにゾロゾロ存在していたというのでは、いい加減にしろと言いたくなる。「チョイワル」おやじばかりだから、オレも多少のワルをやっても構わないだろうと皆が思い始め,ワルが見つからずに、うまくやって金を掴めば「勝ち組」さと世間を解釈する者も少数ではないかもしれない。

 「チョイワル」が個人のファッション,趣味の段階に留まっていれば、それは個人の責任の範囲の問題だったのだが,それぞれの仕事でチョイワルをやっていたのでは、それは社会の問題になってしまう。

 「ワル」の基準がしっかりしていてこそ「チョイワル」も怪しい輝きを放つのだろうが,宗教の影響力が小さく、アメリカの言うままに「改革」を続けるなど判断の座標軸が希薄な日本社会では「ワル」も相対化されかねない。そんな中での「チョイワル」は、甘ったれたおやじたちの格好をつけた自己弁護でしかない。