望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

感動を与える

 感動とは、美しいものや素晴らしい出来事などに強く心を揺さぶられた時の感情だ。心を揺さぶられた対象への絶賛であり、対象を肯定する最上級の表現でもある。日常的に生じる、ありふれた感情ではないから感動は特別な高揚感を伴って記憶されたりもする。

 この感動という言葉が日常語へと変わりつつあるようだ。「感動した」とか「感動を与える」などの言葉を聞いたり見かけることが多くなった。これは、特別に美しく素晴らしい出来事が増えたからだとも解釈できるが、日常的な感情を表す言葉として簡単に感動という言葉が使われるようになったとも解釈できる。

 「感動した」とは対象に対する評価でもあるから、感情が大きく動きやすい人は感動という言葉を乱発する。感動という言葉が日常語になったのは、現代人(若者?)の感情が動かされやすくなり、対象に対する評価が甘くなっているためと考えると、感動する対象が増えたのではなく、ちょっとした感情の動きにも感動という言葉を使うようになったと解釈できる。

 一方で「感動を与える」との発言を聞くことも珍しくなくなった。スポーツ選手が、活躍する決意を示す時などに使われたりする。いい選手であったとしても、「意図的に感動を与えられるなんて、いやだよ」と言いたくなることもある。感動を与えるという大きな責任を選手が感じているようにも見えないから、おそらく流行り言葉なのだろう。

 感動を与えるとは、見る人々の感情をコントロールすることである。スポーツ選手は深く考えて言っているのではなく、「頑張ります」が変化した表現として使っている気配だ。活躍できなかったスポーツ選手が「感動を与えられず、すみません」などと謝罪した場面を見たことがないので、感動を与えられなかったとしても責任が追及されることはないから、安直に「感動を与える」と言う。

 感動という言葉が日常語になったのは人々が感動を求めているからだが、感動というより強い刺激を求めているのだろう。自分の感情を強く刺激する何かを求めたり期待する。手っ取り早いのがスポーツで、感動が量産され、観客は手軽に熱狂できる。

 人々が日常生活において感動(強い刺激)を求める社会とは、平穏で安定した社会だ。内戦状態とか交戦国の社会などでは日常生活に強い刺激がありすぎるだろうから人々は日常的に緊張を強いられ、感動など特に求めないだろう。政治による強い刺激が存在する社会で人々は無感動に生きるのかもしれない。