望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

負け戦の責任


トム  「私はトムです。私は日本語を学んでいます」


スージー「私はスージーです。私も日本語を学んでいます」


トム  「ここはどこですか」


スージー「ここは靖国神社です」


トム  「おお、ここがあの靖国神社ですか。戦争で亡くなられた人々を悼みます。でも、我がアメリカにかなうはずもないのに無謀な戦争を始めて、最初はともかく、我が国が本気になった後はズルズルと押されて、遂には無条件降伏をしたという戦争の敗戦責任を負う日本軍国主義の指導者らも祀られているという場所ですね」


スージー「この場所で、敗戦責任という言葉を使ってはいけません。日本人は先の戦争を敗戦とは認識したがりません。戦争は全て悲惨なものであり、戦争は全て悪であると考え、多くの日本人は自分たちも戦争の被害者であったと思っています」


トム  「なぜ、被害者だと日本人は思いたがるのですか。銃を持って中国大陸、東南アジア、太平洋諸島などに出掛けて行ったのは日本人自身じゃありませんか」


スージー「それは、抵抗もできないほど強力な軍部独裁政権に強制されて、しかたなく多くの日本人は銃を持たされ、外地に送り込まれたという歴史解釈を共有することで、無力であったとの言い訳が成り立ち、多くの日本人が安心して戦争の被害者になることができるからです。だから、例えば中国や韓国の人々が、被害者感情から日本を責めると、被害者感情に安住していた日本人は反発するのです」


トム  「確かに戦時体制国家の中では個人は無力かもしれません。しかし、無力であったことと被害者であったこととはイコールではないと私は思います。むしろ、敗戦後に戦争の責任者追及を日本人自身が行わなかったことが、現在の歴史認識の混乱を招いているように見えます」


スージー「国家権力を相対化できるほどの個人意識が、当時の日本人にはなかったのでしょう。厳しい見方をするならば、アメリカに圧倒的に負けた無条件降伏だったから日本人は、無力感もあってアメリカを意識しつつ、被害者感情を持つことができたのかもしれません。極東裁判に対する感情的批判も、日本人の被害者意識をベースにしているようです」


トム  「This is a book。これは一冊の本です。1冊の本があることを認識する。悲しい内容か楽しい内容か、そうした主観的判断の前に、存在するもの、存在したものを正確に認識する。このような認識の仕方を、戦争、敗戦などについても日本人はないがしろにしているようです」


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 「アジア解放のために日本は立ち上がった」などと、日本が無条件降伏をした先の戦争を肯定的にとらえる人々がいる。そうした人々は反平和の傾向を持つと一般的には看做されてきた。しかし、それは逆である。無条件降伏という、世界に大恥をかいた負け方をした戦争を肯定的に見る人々は平和主義者であろう。好戦的な人々なら、負け戦の軍部指導者を決して許さず、その復権など認めず、ましてや、戦争の受難者であったなどとは認めまい。敗戦責任ははっきりさせろと考えるだろう。


 A級戦犯靖国神社に祀られていることが議論になっているが、負け戦となれば敵方に裁かれるのもやむを得まい。そんな覚悟もなしで軍人になったわけではあるまい。「生きて虜囚の辱めを受けず」などと兵隊を縛っておきながら、日本軍の指導者らが生き延びて裁判にかけられた光景は、奇妙なねじれに見える。


 A級戦犯靖国神社に祀った。無条件降伏をせざるを得なかった敗戦の責任を負う人々が、戦死者と同列に祀られるのは、戦争による全ての死者を平等に扱うという平和主義的発想から出てきたものだろうか。まさかね。