望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

戦死者と戦災死者と戦争受難者

 人は死んだ後、どうなるのか。肉体とは別に霊魂があり、肉体の死後も霊魂が残ると信じるところから宗教が始まる。多くの宗教は、霊魂は神の領域だとするが、神道は霊魂を生きている人間が管理し、時には、霊魂を移動させることもできるという。霊魂を思うままに扱うことができる神道は、戦禍を生き残った人間に都合のいい宗教だな。


 霊魂は祟るものと恐れられる。特に不遇な死に方をした人間の霊魂は現世に思いを残していると看做された。気象などの知識が乏しかった昔は異常気象、天変地異を霊魂の祟りに結びつけて解釈することも珍しくはなかったようだ。


 靖国神社には、天皇のために戦って死んだ者らの霊のみが祀られているというが、靖国神社のそばを通るたびに、「おい、霊魂が本当にあるなら、そこに集まっているなら、祟ってみろ」と言いたくなる。アジア、太平洋の各地で悲惨な死に方をした人が多いであろうし、家族などに思いを残して無念の死を迎えざるを得なかった人も多いだろう。戦死者のすべてが天皇陛下万歳と信じきって自分の死を納得していたわけでもないだろう。しかし、戦死者の霊魂の祟りで大きな雷が落ちてきて大鳥居が粉々になったということもない。


 靖国神社を巡って議論が錯綜しているが、基本的な問題は日本(人)が戦死者の扱いについて社会的に曖昧にしてきたところにある。明治以降、戦死者は国家の戦争に駆り出されて死んだのだから、国家が祀るのが筋だと靖国神社を人々は受け入れたのだろうが、それは同時に戦死者を国家が「管理」する形にもなった。皇国史観の尾を引きずったままの靖国神社に戦死者をほぼ「独占」されている。国を誤った皇国史観の秩序に再び組み込まれては、戦死者の中にはさぞ無念に思う霊魂もあるだろうに。霊魂が本当にあるとすれば、戦死者は今、何を思うのだろうか。


 坂口安吾は「天皇を最も敬っているように振る舞う連中が、天皇を最も利用していた」と書いた。その言葉を借りるなら、「戦死者を最も悼んでいるように振る舞う連中が最も戦死者を利用している」。