マスコミの重要な責務は権力批判だ。権力は腐敗するもので、時には暴走する。また、権力を行使する人々は都合よく情報を操作する一方、不都合な情報を隠し、権力行使に伴う責任を問われかねない情報なら破棄したりもする。そういう権力を監視し、常に批判する存在が民主主義(主権在民)には必要かつ不可欠であり、その代表がマスコミとされている。
権力の行使に関わる人々の腐敗とか職務怠慢、不品行など不祥事や、権力行使により実害が生じている場合などにはマスコミの批判は人々の共感を得て、その批判は支持されるだろう。だが、政治方針や政策など立場により賛否が分かれる事柄に対する批判は、マスコミの批判と賛否を異にする人々から賛同を得ることはできまい。
権力とは性悪であるとの見方に立つマスコミならば、保守寄りの権力でもリベラル寄りの権力でも常に時の権力を厳しく批判するだろう。そうした批判を人々に納得させるためには第一に、どんな権力の行使も人々を損う、第二に、どんな権力も社会を悪くさせるーーなどの暗黙の了解を想定しなければなるまい。
マスコミは反権力であるべきだと考える人々には、こうした暗黙の了解は納得しやすいだろう。反権力であるマスコミなら、全ての権力を批判する。批判の根拠を問われても、権力のなすことは全て悪だと言えばすむ。日本のように保守寄りの権力が長く続いている社会で、マスコミの権力批判の根拠が曖昧に見えるのは、権力批判が反権力の情緒で描かれているからかもしれない。
根拠が曖昧な批判は珍しくなく、根拠を曖昧にすることで何でも批判することができ、昨日批判したものを今日は称賛し、明日になってまた批判することも可能だ。いくらでも批判や称賛の根拠をでっち上げることは簡単だから、常に批判者でいることは難しくない。
だが、マスコミの権力批判が何でも批判しているように見えては、やがて批判者への信頼が損なわれよう。反権力の人々は賛同するかもしれないが、賛否が分かれる事柄に関する権力批判を説かれて違和感を感じた人々は、マスコミの権力批判の根拠を問うだろう。マスコミの権力批判にも説明責任が求められる。
権力批判を行わず、権力を翼賛するだけのマスコミも世界には珍しくないが、そうしたマスコミには権力の暴走を正す力はない。情報が平準化した現在の世界では国家権力以外に大きな影響力を持つ組織や運動などが存在する。そうした国家以外の権力に対する批判を日本を含め世界のマスコミが行うことができているか。そこでもマスコミに説明責任が求められる。