望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

自由を求める自由

 強大な中央政府が人々を強権で抑圧し、思想や行動を統制、日常生活で中央政府が制定した規範からの逸脱を許さず、言論や表現、行動などの自由を人々から奪う国は現在も世界各地に存在するし、過去にも日本を含む多くの国が強権で人々を統制していた。そうした国で大半の人々は従順に従うが、少数の人々は自由を求めて行動する。

 自由を求めての行動が徹底的に弾圧されると、人々の自由は奪われたと見える。しかし、言論の自由表現の自由、行動の自由などは弾圧されたとしても、自由な言論、自由な表現、自由な行動は人々の側に残っているのだ。もちろん、そうした国における自由な言論、自由な表現、自由な行動の行使は官憲に妨害され、逮捕されたり投獄されたりするだろう。逮捕や投獄などを恐れなければ、自由な言論、自由な表現、自由な行動は可能である。

 自由な言論、自由な表現、自由な行動の行使は、言論の自由表現の自由、行動の自由を求める行為だ。強大な国家権力といえども人々から、自由な言論、自由な表現、自由な行動を奪うことはできない。人々が自由な言論、自由な表現、自由な行動を行使したときには、徹底的に弾圧することしか国家権力にはできない。

 竹中労さんは著書『竹中労の右翼との対話』中の白井為雄氏との対論で、「いちばん大切な自由は、『自由になろうとする』自由だ」と述べ、「格子があるから破ろうとする、檻があるから外へ出ようとする、つまりそのときの精神がいちばん自由なんで、どんな時代であろうと、どんな立場であろうと、どのような環境の中でも、いえば首が飛んでも、『自由になろうとする』自由はある」(引用は同著。以下同)。
 
 戦前や戦中は「きびしい時代だった、不自由だったといいますけれども、『自由になろうとする』自由を、戦前のほうがずっと日本人は持っていたんじゃないでしょうか」と、厳しい時代だからこそ、自由を獲得しようと人々は真剣に考え、自由になろうという自由を行使する人々がいたと指摘する。無事には済まないだろうと予想しながら、それでも自由を求める自由を行使した人々。そうした人々の精神は、国家権力に束縛されず、自由であった。

 人々が立ち上がって専制権力を打倒し、政治体制を変えて獲得した様々な権利と自由と、他国に占領されて政治体制を変えられ、人々に「与えられた」権利と自由。前者は「自由になろうとする」自由を人々が行使して獲得した権利や自由であり、後者で人々は「自由になろうとする」自由を行使しなかった。立ち上がらなくても「与えられた」権利や自由に人々が満足しているのなら、さらに「自由になろうとする」自由を行使するはずもない。

 人々から「自由になろうとする」自由を奪うことは、どんな強権国家であろうと不可能だ。だから専制国家にとって、人々は常に潜在的な反抗分子であり、人々が「自由になろうとする」自由をいつ行使するかと恐れ、警戒する。社会を変え、政治制度を変え、国家を変え、世界を変える力は人々にある。