望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

悩ましい選択

 これは、『夜と女と毛沢東』(吉本隆明辺見庸の対談。文春文庫)の一節。


(辺見) 女から「あなた、文章は最低だけど性格は最高だ」と言われるのと、「性格は最低だけど文章はいい」と言われるのと、もう一つ、「あなたは書くものもくだらないし性格も最低だけど、あっちのほうだけは凄い」と言われるのと、何が一番いいと思うか? 吉本さんなら何を選びます?


(吉本) うーん。


(辺見) 僕は絶対三番目だな(笑)。セックスが最高だと言われるのが、僕の夢ですね、というより人間的にそうあるべきじゃないかとどこかで思っている。現実にはまったくそうではないから、ものを書いたり理屈をこねたりしているわけですが、三番目が理想でしょう。


(吉本) やっぱりそれが理想ではありますよね。


(辺見) ええ。これ、僕、大真面目に言っているんです。抽象的にではなく、具体的に見れば、人間なんてたかだかそんなものでしょう。



 何が一番いいと思うか?と問われても、返事に困りそうだ。「文章がいい」とも思われたいし、「性格がいい」とも思われたいし、「あっちのほうは凄い」とも思われたいしなあ。「文章がいい」を一般化して「仕事ができる」に置き換えると、この問いは誰にでも身近なものとなる。



 二者択一ならぬ三者択一を迫る問いだが、実は「仕事ができる」「性格がいい」「あっちのほうは凄い」は、1人の人間が兼ね備えることができるものでもある。この三つは、どれかを選んだなら即座に、他のものが排除されるという関係にはないからだ。仕事ができて、性格が良くて、あっちのほうは凄いという、人生を謳歌しているだろう人物は実在する(多分ね)。



 とはいえ、この三つを兼ね備えることは簡単ではない。自分は三つを兼ね備えているよと自信を持つ人もいるだろうが、それは主観でしかない。この三つとも、他の人からの評価によって決まるもので、いくら仕事や性格、あっちのほうに自信があったからとて、客観的な評価が伴うとは限らない。自己満足が客観的な評価と一致しないことは、よくあることだ。



 そもそも、仕事や性格、あっちのほうのどれか一つだけでも、他の人から“最高”の評価を得ることさえ難しい。どれか一つだけでも“最高”の評価を得たなら、実りある人生といえるのではないか。でも、不断の努力で“最高”の評価を得たとしても、それが長続きする保証はない。人の心は変わりやすく、誰かの“最高”にもすぐ馴れてしまう。日常化した“最高”は日常でしかない。