望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

表現の自由だってさ

 こんなコラムを2006年に書いていました。


 ムハンマドとおぼしき人物のターバンが爆弾になっているなんて絵は、単純な思い付きに過ぎず、あまり上等の諷刺ではない。例えば,イスラム教徒の爆弾によって同じイスラム教徒が死んでいることをチクリとやってこそ諷刺となろう。


 そんなイラストを欧州各国のマスコミは次々と転載している。熱心なイスラム教徒が問題視し,抗議したことから,「表現の自由」が脅かされているとの危機感を持ったらしい。これ幸いと熱心なイスラム教徒側は問題を煽り,拡大させ、欧州のマスコミはイスラム教徒やアラブ人の感情より自分たちの「表現の自由」のほうが優先されるべきだと「自由のために闘う戦士」を気取る。


 欧州ではホロコースト批判はタブーである。ドイツでナチスユダヤ人の大量虐殺を行ったが,戦争終結後,パレスチナへと欧州のユダヤ人を送り出したのは欧州各国である。パレスチナの土地にイスラエル国家樹立を欧州各国が認めたのもホロコーストがあったからであるが、欧州各国は欧州内でのユダヤ人との共存よりも、「約束の地」へどうぞ行って下さいと体よく欧州から追い出しを図った。


 「表現の自由」は大切である。民主主義社会を支える大きな柱の一つであることは間違いない。「表現の自由」は尊重されなければならないし,新聞・放送・出版社などは「表現の自由」を確保・維持するために不断の努力をしなければならない……のであるが,ホロコースト批判を行った「マルコポーロ」(文藝春秋社)が廃刊に追い込まれたようにタブーは現に存在する。

 「表現の自由」は客観的な概念のようでいて、何をもって「表現の自由」と看做すかという実際の判断は個人の恣意にまかされている。例えば,大手マスコミ関係者にスポンサータブーを指摘すると「なに青臭いことを言うんだ。食えなきゃ媒体もやっていけないじゃないか」と不問にされ,皇室関係に腰が引けていることを指摘すると「右翼が怖いわけじゃないが,いろいろと差し障りがあってな」などと触らぬ神に祟りなしの姿勢。


 タブーとは反応が圧力になって返って来る対象である。それぞれの国・社会にはそれぞれのタブーがあり,それぞれの宗教にもタブーがある。例えば、キリスト教処女懐胎を皮肉って、こっそりマリアと誰かがファックしているイラストを書いて風刺画だと言っても欧米では掲載するマスコミはないだろう。


 「表現の自由」が常に意識されるのは,表現への圧力が恒常的に存在しているからでもある。表現への圧力とは,表現を都合よく統制し,情報をコントロールしようするもので、国家権力だけでなく,あらゆる組織、団体、企業が隠し持っている願望と見た方がいい。「表現の自由」は実は脆いものである。なぜなら、「表現の自由」がなくても大方の人々は生活に困らないし,マスコミもそれなりに経営していくことができるだろう。「表現の自由」がなくなって困るのは「自由な表現」を望む人だけである。各自が自由な表現を実践する中からのみ,この社会における表現の自由は確立・維持される。