望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





薔薇とローズ


 花のバラを指して、ある人が「薔薇」と言い、別の人は「ローズ」と言う。表現は異なるが、どちらも正しい。この2人が議論をして、「薔薇が正しい」「ローズが正しい」とそれぞれ主張したとしても、どちらも正しい(どちらも間違いではない)。



 では、バラを指して「フラワー」と言う人が現れた場合はどうか。間違ってはいないのだから、正しい表現である。ただ、対象をもっと正確に表す「薔薇」等の表現が他にあるといえるし、もっと正確に表現すべきであると批判できるかもしれない。この3人が議論をし、それぞれに「薔薇だ」「ローズだ」「フラワーだ」と主張しても、誰もが正しい(誰もが間違いではない)。



 正しい表現は一つであるとは限らない。表現とは人によって、対象の認識の度合いにより異なるが、対象の認識は、各人の知識量の相違のほかに各人の情緒、打算等も関わって来るので、個人差が出て来る。厄介なのは、自分は正しい認識をして正しい表現をしていると多くの人が信じていることだ。自分の認識の度合いを客観視できる人は残念ながら、そう多くはないだろう。



 対象の認識に個人差があるということは、バラを指して、「トゲがある植物」とか「赤い花が咲く植物」「育てるのに手間がかかる植物」などと属性を表現することも間違いとはいえない。適切な表現であるかといえば、不十分な表現であろうが、バラのイメージが人によって異なることから表現に変化が生じる。



 間違いではない表現がいろいろあるとはいっても、どの表現が適切なのか、あるいは、その表現の適切さ(正しさ)の度合いはどの程度なのか。そうしたことを客観的に評価すべき存在が世の中には必要で、例えば学者などは、そうした「正しさ」の評価を担うべきであろう。



 ただし、学者には学問に対する良心があると見なされているから、その言葉が信用される。自分の利益のために「正しさ」の評価をゆがめることがあるのが学者だと見られたなら、学者がバラを指して、「薔薇」だ、「ローズ」だと言ったところで素直には聞いてもらえなくなるだろう。



 日本の原子力を巡る議論で混乱が深まっているのは、いろいろな表現の「正しさ」の評価をすべき学者が見当たらないことが大きい。一方は「安全」という神話に加担し、一方は「危険」を煽る。