望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

議論の成果

 幕末の頃、攘夷派と開国派、倒幕派佐幕派などに対して誰かが「殺し合いは止めて、話し合いで日本の方向性を決めましょう」と呼びかけ、公開討論会のようなものが実現したとしても、冷静な議論が成立したかは疑問だ。自分らの主張が絶対に正しいとし、相手側の主張が容認できないからと殺し合いを始めた連中なのだから、相手の主張を黙って聞いているはずがなく、怒鳴り合いで済めばマシなところか。



 冷静な議論が成立するためには、考えが異なる相手側の主張を聞き、理解した上で反論するという姿勢が相互に必要。だが、自分が正義の側にいると思い込んでいる人は“異論”を聞く耳を待たず、討論会を開催しても、声を大きくして自説を述べ、相手を罵倒しかねない。幕末に活発に活動した人達なら、相手を説得することより、斬り捨てて反対者を減らした方が簡単で、妥当だとさえ思うかもしれない。



 社会を、自分らの主張するように変えるために武力や暴力を容認する人達との議論は、そもそも成立しがたい。自分らが絶対に正しいとする人達には、その正しい自説を検証する必要性はなく、その正しい自説を実現することの方が大事になる。そして、自分らの武力の行使を正当化するためにも、自分らが絶対に正しいことが必要になる。



 自分らの「正しさ」は自明だから、議論より行動だとする人は、幕末だけに存在したわけではなく、現在も世界中にいる。その「正しさ」をどう獲得したかは人により様々だが、「正しさ」が宗教に支えられている場合には、議論すること自体が否定されるだろう。宗教に基づく価値観とは、議論の対象ではなく、受け入れる対象でしかない。



 そこには、宗教などによる絶対的な「正しさ」に依存するという奇妙な存在も含まれる。そうした人は、その宗教の価値観を理解し、納得して受け入れたのだろうが、宗教を自発的に選んだときから関係は逆転し、その宗教の「正しさ」に同化していかざるを得なくなる。そうした人の持つ「正しさ」はもはや議論の対象ではなく、依存の対象になる。



 宗教以外に既存の思想や価値観に依存する人もいる。そういう人にとって議論は苦痛かもしれない。自説や自分の価値観の自由な転換を行うことができない人には、議論の場は、自説を誇示したり異論を攻撃するための場でしかないだろう。既存の思想や価値観に強制されることを望んで依存した人にとって、議論により依存する対象が変わるはずもない。