望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

科学的とは

 科学的な思考とは「実証的・合理的・体系的に考えること。また、そのような傾向にあること」だ。科学的な思考をする人ならば、学者の主張でも鵜呑みにせず、その主張を実証的・合理的・体系的に検証する。学者の主張の、受容できる部分と留保する部分、批判して受け入れない部分を見分けることができれば、科学的な思考を実現できているだろう。

 科学的な思考の反対は非科学的な思考だ。それは「実証的ではなく、合理的でもなく、体系的でもなく考えること。また、そのような傾向にあること」で、そうした思考をする人は主観だけで判断したり、思い込みや感情に判断が影響を受けたりする。非科学的な思考をする人の問題は、自分の非科学的な思考を自覚できないことだ。

 学者の主張が全て真理であると無批判に受け入れる人は、自分では科学的な思考をしているとの自負があったとしても、実際には非科学的な思考をしている。学者の主張が全て真理であるーということはなく、学者の主張は一つの仮説である。現実に観察される事象や実験結果を合理的に説明される仮説だけが共有され、体系を構築するのが科学だ。

 だが、学者の主張する仮説を評価することは研究者ではない一般人には簡単ではなく、学者の主張を一般人は「信じる」しかないのが実際だろう。学者の主張を検証しようとしても、大量の生データや複雑な数式などを見せられて、ほとんどの一般人は検証をあきらめるだろう。

 「信じる」という行為は科学的な思考ではない。科学的な思考では全てが検証の対象となり、学者の主張も他の学者からの厳しい検証・批判にさらされ、それに耐えて残った主張だけが共有される。科学的な思考には、批判的に考えることが不可欠だ。宗教指導者の言うことや神の言ったことを信者は受け入れる(=信じる)だけで、それらに対する批判は許されないのが宗教である。

 学者の主張を無批判に受け入れ、学者の主張を受け売りすることや、御託宣であるかのように学者の主張に盲従するのも非科学的な思考の結果だ。だが、学者の主張を受け売りすることが科学的な思考による行為であると振る舞う人は珍しくなく、多くのマスメディアも学者の主張を無批判に報じる。

 学者の主張の細部を理解せず結論だけを見て納得した気になって盲従する人は、学者は真理を言い、科学は真理の体系だと考えている気配だ。だが、それは科学への信仰であり、学者を宗教指導者だと誤解している結果だ。仮説と真理の混同が、科学や学者への崇拝につながる。