望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

嘘をつく

 ある女性(Aとする)が「女性は、いくらでも嘘をつける」と言った場合、その発言が真実であるなら、女性Aは嘘をついている可能性が高い。「女性は、いくらでも嘘をつける」のだから女性Aも嘘をつけるだろうし、女性Aだけは嘘をつかないと判断する根拠がないのだから、女性Aも嘘をついている可能性が高い。

 しかし、女性Aが嘘をついていて、その発言が嘘だったとすると、「女性は、いくらでも嘘をつける」は嘘で、反対の「女性は、嘘をつけない」が本当ということになる。だが、女性Aは「女性は、いくらでも嘘をつける」と発言したのであり、嘘をつけない女性が嘘をついたことになり、矛盾する。女性Aは、嘘をついたのか真実を述べたのか。

 女性Aの発言「女性は、いくらでも嘘をつける」が真実ではないなら、その発言を否定する「女性は、嘘をつけない」が真実になる。しかし、女性Aは真実ではないことを発言した=嘘をついた。女性は嘘つきだという嘘を女性Aは言ったのだが、女性は嘘をつけないことが真実だとすると、嘘をついた女性Aは真実を言わなかったことになる。女性Aは、真実を述べたのか嘘をついたのか。

 これは、クレタ人のパラドックスを想起させる。あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言ったが、その発言が真なら、そのクレタ人の言ったことは嘘でクレタ人は嘘つきではないことになり、発言「クレタ人は嘘つきだ」は真ではなく、矛盾する。その発言が嘘なら、クレタ人は嘘つきではないことになり、「クレタ人は嘘つきだ」との発言と矛盾する。

 女性Aはおそらく、自分以外の女性は「いくらでも嘘をつける」と言ったのだろう。自分を除いて女性は「いくらでも嘘をつける」との発言は、自分は嘘をつかないとの前提だ。あるクレタ人が「自分以外のクレタ人は嘘つきだ」と言ったのなら、そこに矛盾はない。女性Aは自分は女性の例外だとする。本当に女性Aが女性の例外であるかどうか、そこが検証されることで女性Aの発言が真か偽かの見極めがつくだろう。

 全ての「女性は、いくらでも嘘をつける」を否定するには、嘘をつかない女性が1人存在することが明らかになればいい。そうなれば、「女性は、いくらでも嘘をつける」との発言は誤りであり、女性が皆、嘘をつくのではないとなる。女性Aが嘘をつかない人間だとすれば、女性は皆「いくらでも嘘をつける」は否定される。それは女性Aの発言「女性は、いくらでも嘘をつける」を自ら否定することである。女性Aが嘘を言ったのか言わなかったのか、どっちか。

 自分以外の女性は「いくらでも嘘をつける」と女性Aが見ているのだとすれば、それは女性Aの体験や見聞に基づく判断だろう。持続化給付金の不正申請や銀行口座からの不正引き出しなど詐欺事件が日常的に起きているように「いくらでも嘘をつける」女も男も社会には蠢いているし、小さな嘘をついた経験は誰にもあるだろう。他人に対する批判意識や不信感が強い人には世の中は嘘つきだらけだと見えているのかもしれない。