利己主義を助長し過ぎたと戦後民主主義を批判し、「私」より「公」を重視しなければならないという意見がある。
この場合、①戦後民主主義を批判しても、批判される主体が曖昧なので誰からも強い反論は出て来ない、②利己主義についても、身勝手な他人に対する批判として誰からも反論は出て来ない、③「公」の実態についての検証がなく、概念規定が曖昧なままである。権力のあり方についての批判を経て「公」のあり方も規定されるはずだが、「公」は無批判に「公」として位置付けられ現状追認になっている、④同様に「私」についての検証もない。そこから、「公」が「私」の集合社会として成立するという共通理解がなく、あらかじめ「公」の枠内にある、「公」の1要素としての「私」としてしか位置付けられていない−−などの問題がある。
この「公」「私」論を皇室にあてはめると、異なものが見えて来る。
もともと皇室は家系をその地位の正統性の根拠にし、個人崇拝さえ国民に強制した歴史もあるなど、私生活も「公」に含まれている。皇室における「私」は限定的なものである。こうした中、当時の皇太子が「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」と04年に会見で述べ、波紋を広げた。具体的には、①男児出産への過度な期待、②そのための外遊の制限ーなどが挙げられた。
皇室における最大の「公」とは、万世一系を続けて行くことであろう。大統領制などでは選挙で選ばれることにより権威に正統性が与えられるが、天皇は血統により正統性が与えられる。皇室に男児誕生を期待するのは、天皇制を奉じている人々にとっては当然の感情なのであろう。
しかし、皇太子は「私」を主張した。妻を庇うためか思い余ってかは判断できないが、皇太子は「腹を決めて」発言したはずだ。
さて、戦後民主主義、いや民主主義(戦後民主主義と民主主義の違いは何か。戦後を冠としてつけることで、民主主義自体を否定していることを誤魔化している)を否定し、「公」優先を主張する人々は皇太子の発言をどう受け止めたのか。彼らの論法からすると、皇太子にも、「私」より「公」を優先しろと要求すべきであろう。しかし、そんな声は聞こえてこない。
「私」が満たされてこそ「公」があるのだという、人間存在の当り前のことを皇太子は主張しているように見える。女性にも皇位継承権を認めようとの動きもあるが、これは、男性優位で続けて来た皇室における「公」のあり方を見直すことでもある。「私」を主張することにより、「公」のあり方が変化するというのは、これこそ「戦後」民主主義の成果であろう(ただし、皇室外交の是非はまた別問題である)。