望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ナショナリズムと民主主義

 王制などに抵抗し、市民革命などを経て誕生した仏英などの近代国家ならば、人々の主権者意識と国家意識が結びつくのは自然だろう。主権者意識は民主主義を支えるものであり、自分たちが勝ち取った民主主義に基づく国家に対して、愛国心が生じるのも自然だろう。民主主義とナショナリズムが結びつくことも自然かもしれない。

 しかし、日本では、民主主義を強く唱える人達はナショナリズムにあまり親和的ではなく、むしろ国際主義(コスモポリタニズム)を指向したりする。一方で、ナショナリズムを重視する人達は民主主義を尊重せず、1945年の敗戦以前の国家体制を理想視したりする。

 日本は市民革命の歴史を持たず、国家=「お上」という意識が人々に強く残っているから、日本では民主主義とナショナリズムが結びつかないというのが、まず思いつく解釈だろう。さらには、自力で獲得したのではない“与えられた”民主主義であり、政府に対して、共感もなければ“思い入れ”もないから、民主主義もナショナリズムも弱いという見方もできる。

 ナショナリズムという言葉の意味するものは、日本では、「国体を死守せよ」てな国粋主義国家主義から、政治色を削いだ愛郷心まで幅広い。国民主義民族主義と解釈すれば、民主主義とでも反民主主義とでも結びつくことができるのだから、ナショナリズム自体は価値中立なのだろう。

 1945年の敗戦後の日本で、民主主義とナショナリズムが結びつかなかったのは、軍国日本で政府主導のナショナリズムがあまりに蔓延したことの反動で、軍国日本への反感がナショナリズム的なものにも向けられ、否定されたことが大きそうだ。軍国日本を批判する根拠となったのは民主主義であったから、民主主義とナショナリズムが結びつかなかった。

 否定されたとしてもナショナリズムは人々の自然な感情に支えられた部分があるので、消えることはなく、抑え込まれただけだ。敗戦後の“与えられた”民主主義と切り離されたナショナリズムは、敗戦以前の軍国日本を理想化する復古派の主張を正当化する道具になった。しかし、それが日本のナショナリズムの全てではあるまい。

 復古派に歪められたナショナリズムを、民主主義を重視する人々が取り戻すことができるなら、日本型の民主主義が成熟に向かい、イデオロギーの残滓や既成概念に縛られすぎない新しい展望が開けてくる可能性がある。ただし、“与えられた”民主主義がひ弱なものだったなら、ナショナリズムに引きずられることにもなりかねないが。