望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

アメリカの自由

 こんなコラムを2003年に書いていました。

 自由や民主主義なんて、立場により、どうにでも言い立てることのできるものである。イラク民主化とはイラク国民が主体的に決めることであり、イランやアルジェリア、トルコがそうであったように、アラブ・イスラム圏で自由選挙を行ったなら、いわゆる原理主義と呼ばれる政党が強いのであり、そうなったなら、今度はアメリカはどんな口実を考え出すのだろうか。

 今回の米英のイラク侵略(国際法的にはそうなる)は、サダム・フセインの排除に成功したとしても、イラク民主化にもアラブの民主化にもつながらない。アフガニスタンのように、後始末は国際社会に任すと体のいいことを言ってアメリカは手を引く。利権は確保してね。まさしく「アメリカの自由」作戦である。

 独裁者が君臨する国家の存在を認めないという国際合意は形成されていない。国家主権は互いに尊重するという原則の世界で、今回アメリカは、国民を抑圧している独裁者の政権は認めないと言い立てて戦争を始めた。いっそのこと、「やることのない」国連で国家の正当性の定義を行ったらどうか。自由選挙が行われず、個人ないしは特定の人々による独裁が行われている国家を排除するということを国連憲章に明記するのだ。

 その作業は民主主義を国際法的に定義する作業ともなろう。西欧流のみが民主主義ではない。アラブにはアラブ流の民主主義があり、中国には中国流の、日本には日本流の民主主義がある。何が民主主義か、必要最低条件を決める。欧米の都合のいいように民主主義が持ち出されるので、民主主義が不偏化しないのだ。

 かつてカンボジアで権力を握ったポルポト派が200万とも300万とも言われる人々を殺した。アメリカはそれを止めず、ベトナムが介入してポルポト派を政権から追いだして虐殺は止んだ。当時アメリカはベトナムを非難した。時の政権に殺されている人々よりも、個別の国家主権を尊重すべきとアメリカは言い立てた。変われば変わるものだ。

 独裁国家というのは、ろくでもないものである。個人であれ政党であれ独裁国家を排除するという国際合意を明文化するいい機会である。しかし、きっとアメリカは反対するのだろうな。サウジやクウエートを始め親米国には議会が機能していない国が多いからな。それに、民主主義が国際的に明文化されると、こんどはアメリカの都合のいいようには民主主義を持ち出せなくなる。