望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

共通する価値観はあるか

 こんなコラムを2005年に書いていました。

 中国、韓国で反日感情の高まりが伝えられ、日本国内では歴史を情緒的に捉えて自尊心を回復しようとの動きが出てきている。これらをナショナリズムの高まりと捉えることもできようが、ナショナリズムだけでは,相互理解は深まらず,対立を先鋭化させる方向へしか進まない。3国ともに政府は、国内世論対策からナショナリズムを放置している。


 欧州の歴史などに見られるように,隣り合っている国々で互いに嫌い合うのは珍しくない。戦争も繰り返してきた。日本は中国と2度戦争し,朝鮮半島にある国とは数度戦争をしてきた。そして,現在のナショナリズムの高まり。ナショナリズムの不毛さを訴える政治家の存在が3国ともに“目立たない”状況では、いつか不幸な歴史を繰り返すのかもしれないーなどと、つい悲観的なことも考えたくなる。実際には、3国の経済的補完関係が緊密になり,日本が中国あるいは韓国と戦争を始めた場合の経済的ダメージは相互にかなり大きくなった。


 3国のナショナリズムは相互に対立する要素を含んでいる。ナショナリズムは愚かな政治家の逃げ込む場所だとの言葉があるそうだが、国内政治対策あるいは選挙対策ナショナリズムを容認する政治家らは、それぞれの国の行く末と,アジアの政治的状況を真摯に考えてはいないだろう。つまり、緊張の高まりのツケを払わされるのは結局,各国の一般の人々である。


 ナショナリズムの高まりは,日本、中国,韓国が共有する理念がないことの反映でもある。歴史的に見て現代世界では、各国は民主主義の理念を共有すべきであろうが,3国の実際はどうか。日本は民主主義国と国際的には認知されているが、民主主義を本当に尊重している社会になっているのか種々の疑問が出されてもいる。政治家も民主主義の維持(実現?)にはあまり熱心ではないように見受けられる。中国は共産党独裁国家である。韓国も国際的には民主国家と看做されているが,民主主義より偏狭なナショナリズムに動かされている。


 日本,中国,韓国に共有する理念のないことが,現在の各国のナショナリズムの高まりを許している。文化的には共有する要素の多い3国に、政治的に共有する理念・価値観がないということが東アジアの不安定さの根本にある。世界経済の中に日本、中国,韓国ともがっちり組み込まれた状況では,アジア主義ではもうアジアはまとまらない。


 どうすべきか。民主主義は万能ではなく,限界もある。しかし、東アジアにおいて対話の成立する基盤が希薄になっている現在,1国の国家主権を上回る理念・価値観の共有に向けて歩み出すとするなら民主主義を持って来るしかない。現実的には中国に民主主義を導入すると共産党独裁は崩壊するだろうから,中国は動きがとれまい。日本と韓国が,民主主義の理念を高く掲げて政治的に相互理解を更に深め,ナショナリズムを色褪せさせることから始めるしかない。


 日本、中国、韓国が共有する理念として民主主義を持ってきたが、その民主主義には大きな不備がある。それは、自由選挙では、ナショナリズムを声高に主張する候補者にも当選する可能性があり、民主主義を否定する候補者でも当選する可能性があり、議員になった彼らはやがては民主主義は非効率的だなどと言い立てたりしかねない。


 民主主義は、人々が理性に基づいて適切な判断をし、適切な行動を行うという前提で成立する理念だ。しかし、人々が情緒的に判断し、必ずしも適切な行動をしないとなったら、民主主義は制度が整っていたとしても機能しない。