望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

天下と国家

 資本主義に移行して経済大国化した中国は、共産党独裁を堅持しつつ、国家の統合原理としてナショナリズムを強く打ち出し、人々にも愛国主義が広がっているように見える。そのナショナリズム愛国主義は、対内的には少数民族の過酷な支配となり、対外的には攻撃性を強める。中国のナショナリズム愛国主義が排他性を強めるのはなぜか。加々美光行さんの『裸の共和国』(世界書院、2010年)から以下、関係がありそうな個所を引用する(適時修正あり)。

 中国では「中国」や「中華」という観念は歴史的には元来、国家を意味する観念ではなかった。国家の観念はたとえば戦国時代の戦国七雄である秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓こそが王朝国家であったので、中国や中華はこの七国の上に天を覆って広がる「天下」を意味していた。
 こうした世界観の下では、どれほど「国家」としての王朝が滅びようとも「天下」としての中国や中華が滅ぶことはないと考えられてきた。 

 ところが19世紀半ば、西欧列強の侵略をこうむることによって、清王朝が滅びるかもしれないという危機がまず訪れ、史上初めて「天下」としての中国も滅びるかもしれないという強烈な危機感が覆うようになった。
 そうした危機状況を救う新たな統合原理として考え出されたのが「中華ナショナリズム」にほかならなかった。「中華民族」の概念は梁啓超が1902年に提起し、孫文がこれを革命運動の政治理念に変えて実践的に利用した。梁啓超は日本の文献の中から英文のnationの訳語である「民族」の概念を見つけ出し、これと本来「天下」概念である「中華」を結びつけて「中華民族」の概念を造語した。

 問題は「中華民族」の観念の中では依然、普遍主義的な「天下」観念は否定されておらず、生き続けているという点だ。「中華民族」の観念の下で、「中国」の観念はかつてのように「天下」のみを意味するのではなく、「国家」を意味すると同時に「天下」でもあるものになってしまった。
 国家意識は自国の個別利益を考える特殊主義的な観念で、天下意識は個別国家の利益を超えた普遍主義的な観念だから、「中華民族主義」の観念は普遍主義と特殊主義が融合した構造を持つ観念だ。ただ中国の指導者は、この「中華ナショナリズム」観念の構造を十分自覚的に把握できていない。
 
 中国は米ソ両大国と同じく、単一の国家として成立するには大き過ぎ、また非常な多様性を含む世界だから、中国が19世紀半ば以後の未曾有の危機に直面して、米ソ両大国と同様の普遍・特殊融合型のナショナリズムを生み出したのも不思議はなかった。

 90年代以後の中国の排他的民族主義の高まりは、中国の普遍主義である「天下」「中華」の観念を絶対善視する傾向が現れ、それへの異論を許さないリゴリズムの度合いを高めることになった。
 「中華ナショナリズム」は抵抗的性格を持続的に持つ限りで、その普遍・特殊融合型の構造はむしろ中国の絶体絶命の危機を救う奇跡的な力を発揮しえた。問題はその抵抗的性格を失うときだ。
 中国国家や漢民族の利益追及を優先する「民族主義」の観念が強まり、普遍主義的な「天下「中華」の観念が押しつけ的なリゴリズムを強めるとき、「天下」「中華」はその求心力を弱めて、その普遍主義が周辺や外部に受け入れられない度合いを高めてゆく。中国の場合、少数民族の民衆レベルで「天下」「中華」観念への拒否反応が強まる。