望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

試される普遍性

 普遍的価値観を外務省は、自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済とする。いずれも欧米由来の価値観であるが、人類が共有するに値すると見なされたから世界で普遍的とされているのだろうし、普遍的だと教育されたことで人々は普遍性に疑いを持たなくなるという仕掛けだ。

 ただし、この普遍的価値観を欧米が都合よく使い分けてきたことを歴史が示している。普遍的価値観を欧米は植民地には適用せず、植民地主義が否定された現在では、政治的に対立する国に対する批判の道具として持ち出すが、例えば中国のように、関係を損ないたくない相手国に対しては普遍的価値観に基づく批判を抑止する。普遍的といっても、欧米は相手により簡単に引っ込める。

 弱体だった頃の中国に対して欧米は普遍的価値観を振りかざして厳しく批判したが、市場としての中国を無視できなくなると欧米の対中批判はトーンダウン。それでも、たまに普遍的価値観に基づく批判めいた発言が欧米からあると、中国は反発して即座に言い返す。

 市場経済を導入した現在の中国だが、自由、民主主義、基本的人権、法の支配は中国共産党の独裁統治を脅かすとして排除の対象で、権力への挑戦を許さない。中国には中国独自の価値観があるなどと普遍的価値観を拒否したりするが、中国独自の価値観の実態はぼやけ、国境を越えて共有されるような価値観を中国は提示できていない。

 例えば、「中華民族の偉大な復興」は中国国内向けのアピールでしかなく、中国モデルといっても外国からの投資主導による統制経済下の経済成長のことでしかない。結局、中国による中国のための「中国の夢」が中国の価値観か……などと他国はまともに中国の価値観に付き合ってはいられない。

 しかし、普遍的価値観とされるものが、台頭した中国によって挑戦を受け、試されている現実は興味深い。日本をはじめ経済成長した国は欧米主導の世界経済に組み込まれれるとともに普遍的価値観も受け入れてきたが、中国は共産党の独裁統治が続く限り、普遍的価値観に背を向ける様相だ。世界的に存在感を高めた中国に適用できないようでは「普遍的」の旗は降ろさなくてはならないだろう。

 かつて日本も独自の価値観をひねり出して欧米に対抗したことがある。そこには欧米のアジア侵略に立ち向かうとの「大義」はあったものの、普遍的価値観に格上げできるような何物も提示できなかった。かつての日本とは違って中国は、他の国や他の文化、他の文明から共有されるような価値観を提示できるだろうか。試されているのは中国だが、欧米も普遍的価値観が、外交の道具でしかないのか、確固とした理念なのか試されている。