望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

プライドとトンズラ

 え~、「驕りと辞任は議員の癖」とか申すそうでございまして。不祥事などでどんどん辞めていけば、淘汰ってヤツですかな、ぼんくら議員が排除されていって、政治家の能力と適性を有する人物が浮かび上がってきて、素晴らしい政治が行われるようになる……なら、いいんですがね。





 代議士の子が、代議士の適性を必ず備えているとは限らず、ハズレが随分多いことは、もはや明白でしょう。後援会組織の事情などもあって二世、三世が「跡を継ぐ」のが増えてますが、主権者の投票行動も「跡を継ぐ」ようで、二世、三世に投票して当選させます。「今度の息子はおとなしいが賢そうだから、まあ、いいか」なんて感じでしょうかね。



 世襲政治家が輩出するのは、適性や能力は二の次、権力を維持するのが目的なのですから、有能な人物より、傍から少し批判を強めれば、すぐ辞任してくれるようなヤワな御人が好都合となりますようで。「売れ行きが落ちたら、新商品を出せばいい」ですかな。これじゃ、民衆はいつまでたっても救われない……のでありますが、何とかとハサミは使いよう、民主主義という制度は、使い方次第です。



 「責任を取って」辞任する議員が、トンズラしたと見えることが多く、無責任だとの批判もありますがね、責任という言葉は政治家にとって、どうにでも解釈できるもの。議員の「責任を果たす」と居座るかと思うと、「責任がある」とトンズラする。

 新聞の書評で柄谷行人氏が以前、民主主義と代表制(議会制)は一体のものではなく、代表制とは貴族制・寡頭政の一種で、民主主義は不特定の民衆が統治する体制と解説し、それゆえに「民主主義への憎悪」が現在まで続いているとしております。代表制とは、選ばれた有能なエリートが支配する体制で、民主主義は「とるにたらない」者が統治する体制と考えられているそうです。



 柄谷氏は、日本でも同様で、戦後民主主義批判を「憎悪」の典型として指摘しますが、一方で、民主主義を唱道する人たちも実はこの「憎悪」を抱いていると指摘するんですね。それらの人は、民主主義を主張しながら、「見識のある代表者(政治家・知識人)」がリードするのは当然だと考え、そうでなければ衆愚政治に陥ると言うんです。「彼らが議会制民主主義を称賛するのは、それを通して、代表者が民衆を啓蒙し、合意を形成することができるからだ。ゆえに、議会制民主主義は実質的に、寡頭政にほかならない」



 民主主義が支配の一形態でしかないとの見方でして。リベラル派も一皮むけば、支配者意識たっぷりだということですかな。支配者意識に相応する倫理観や責任感があるなら、それなりに機能するのかもしれませんが、批判を受けると「投票して選んだのは主権者だ」との逃げ口上が用意されているので、ツケはやはり回ってきますようで。



 柄谷氏は書評のまとめを、民主主義は制度でも、合意を形成する手段でもなく、「公的な領域から排除され、『言葉をもたない』とされてきた者らが、『不合意』を唱え、異議を申し立てる出来事を意味する。そこにこそ、『とるにたらない者』による統治、つまり、デモクラシーが存在する」とするんですね。つまり、主権者次第ということですな。



 なあ~んだという印象の結論ですがね、主権者が実は政治主体から巧妙に排除されて来たということを指摘し、主権者とおだてられる一方で、言葉を取り上げられて来たことを自覚するところから、民主主義は始まるということのようで。