「平和」という文言を掲げる団体や運動が旧統一教会の関連で多く存在し、正体を知ってか知らずか、接触を持っていた政治家たちが批判されている。うろんな宗教団体が、霊感商法などで多大な被害を生じさせたことを反省して、贖罪のために「改心」して平和のために活動するなら慶賀の至りだ。だが、そうではないことはミエミエだ。
「鰯の頭も信心から」のことわざがあるように、何かを信仰している人々の精神のありようは傍からは理解しにくい。信仰の世界は俗世間を超越するのだが、宗教団体や信者が存在するのは俗世間だ。厄介なのは、俗世間に影響を与え、俗世間を変えようとする教義を有する宗教団体の活動だ。信仰は内心の問題だが、その活動は俗世間の問題となる。
平和は信仰の問題ではなく、俗世間の問題だ。信仰がなくても平和を掲げる活動を行うことはできるのだが、宗教団体が平和を掲げる運動を行うのは、①信仰よりも俗世間の問題を優先させている、②俗世間を平和な状態に変えるとの教義がある、③宗教団体であることを見えにくくする偽装ーのいずれかであろう。
平和を求めることに反対する人はいないだろうし、平和を求める運動に疑いの目を向ける人も少ないだろう。だが、平和を掲げる団体や運動は善意の正義感で動いているとの先入観があったりすると、批判的に見ることは抑制されやすくなる。さらに、戦争はすべて悪であり平和は絶対善であるとぼんやり考えていると、絶対善という価値判断は宗教と融和性があるので宗教団体の平和を掲げる運動などに取り込まれやすくなる。
平和は穏やかな状態のことで、それを脅かす「心配や揉め事」がない状態が個人にとっての平和であり、「戦争や紛争、災害」がない状態は社会にとっての平和になる。前者の個人にとっての平和を宗教団体が信仰によって達成すると主張することは珍しくないが、後者の社会にとっての平和を宗教団体が希求すると、俗世間においての活動を伴う。
宗教団体の希求する平和と、社会通念としての平和が同じであるかどうかは不明だ。宗教団体が希求する平和の状態においては宗教団体の役割が重視されているだろうから、そうした平和な状態の俗世間で宗教団体は特別な位置を占める。おそらく社会において特別な位置を占めることを目的に、そこへ到達するステップとして平和を求める運動などが設定されている。
抽象語としての平和には単一の定義のみがあると受け取られるが、実際は論者がそれぞれの意味を付与している。例えば、プーチン氏が言う平和とゼレンスキー氏が言う平和は同じ意味ではないだろう。平和は普遍的な概念であるが、個別で特殊な状況に適合した平和の概念もある。つまり平和の状態は人によって解釈次第で多様であり、誰にとって都合のいい平和かを見極める必要がある。
宗教団体が掲げる平和が布教活動や勢力拡大活動の一環であることは容易に想像がつく。抽象語としての平和の意味だけだと思い込み、うっかり利用しようと接触した政治家たちは、あわてて関係遮断を表明せざるを得なくなった。さらに、普遍的な概念としての平和は大切だから、どんな団体であれ平和運動は立場を超えて支援すると言える政治家がいないことも今回、明確になった。