望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ヤジについての考察

 ヤジるとは「他人の動作や発言などに、からかいや批判の言葉を浴びせる」ことと辞書にある。似たような言葉にチャチャ(茶々)があるが、こちらは「じゃま。妨害。他人の話の途中で、横から入れるひやかし気味の冗談」のこと。ヤジは「とばす」ものだが、チャチャは「入れる」ものとされる。

 どちらの言葉も話者の話を遮ることが目的ではなく、聞き手側からの批判やからかいの表明なのだが、あまりにも絶妙すぎるヤジは話者を絶句させたりすることもある。ヤジをとばすタイミングは、話者が息を吸う時が狙い目だそうで、話者に一瞬「何だ?」と考えさせるような内容の言葉が効果的だという。ただ、批判したり罵倒すればいいというものではないのだな。  

「とばす」と「入れる」の違いは、話者と聞き手の距離感の違いを表している。互いの距離が近い会話の中で入れるのがチャチャであり、離れている話者に向って放たれるのがヤジである。とはいえ、離れすぎて話者に届かない言葉はヤジではない。だから、テレビ画面に映る政治家に茶の間から、どんなにヤジをとばそうが、それは独り言でしかない。

 からかいや批判の他にヤジに悪意が込められることもある。例えば球場で、打席に向う選手に「チャンスだ。打てよ〜」「頼むぞ〜」などの声援がとぶが、見逃し三振だったりすると手荒な言葉が投げつけられたりする。期待が裏切られた反動だが、話者に敵対する聞き手が乱暴なヤジを飛ばすことも政治の場などでは珍しくない。聞き手が内に秘めた悪意がにじみ出ていることもある。

 ヤジに悪意が込められていると話者が感じた場合、ヤジは演説妨害や議事妨害、誹謗中傷であると見なされたりする。与党も野党も互いに相手に対して同様のヤジをとばしあっているのだから、ヤジの“悪質さ”においては同類だろうが、自分がヤジに悪意を込めたことを知っているから、相手のヤジを聞き流すことができなくなる。

 一方で、ヤジは社会のある程度の健全さを示すものでもある。言いたいことを言いたい時に言うことができるという健全さであり、言わなくてもいいことを言わなくてもいい時に言ってしまう勘違いを許容する健全さでもある。つまり個人の人格、見識、識見などがヤジにも表れるから、ヤジは自己責任でとばすしかない。

 独裁者がいる社会では、演説している独裁者にヤジをとばす人はいない。生命に関わることにもなるから。人々は独裁者の演説を黙って聞き、拍手を送るしかない。それに比べると、お粗末なヤジではあっても、ヤジがないよりはマシか。とはいえ、話者が絶句するような気が利いたヤジをタマには聞いてみたいものだ。話者を含めて皆が笑い飛ばせるようなヤジなら、なお結構だ。