望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

保守的な態度

 保守というと、新しい動きに背を向け、伝統など旧来のものに親しみ、固持しようとするイメージだ。新しい動きに敏感で、新しいことを受け入れ、すぐに順応する若者に比べ、概して年配者のほうが保守傾向が強いと見なされる。保守=悪いこと……ではないのだが、進歩や改革に後ろ向きで、“遅れている”とのレッテルが貼られることもある。

 保守的とは、物事を急には変えようとしない態度のことである。だから、保守派が保守的であることは当然だろうが、リベラル派や革新派とされる人が、態度として保守的であることが実は珍しくない。時代が大きく変化しているにも関わらず、従来からの“進歩的”主張を頑固に変えず、固持したりするので、その硬直ぶりは保守的そのものになる。

 リベラル派や革新派が態度として保守的になるのは、「正しい」ことを主張しているから、時代の変化にも主張を変える必要はないということかもしれない。その正しさを絶対の正義だと思い込んでいたりすると、ますます変える必要を感じなくなるだろう。でも、「正しさ」が時代の影響を受けるものであることは過去の歴史が示している。

 自らの主張の「正しさ」を妄信すると、時代の変化が見えにくくなる可能性がある。一方、時代の変化が見えてはいるが、変化に対応して現実的に考え始めると、それまで批判し続けていた保守派の主張に近づくことになってしまい、それではリベラル派の面目丸つぶれだから、頑固に主張を変えない……のなら「正しさ」は虚構に近づく。

 時代の変化による検証を拒否するような、柔軟性を失った思考や思想を支えるものは信念だろう。信念が示す「正しさ」は主観的なものだが、客観性を装うために、その主張を正当化するのに都合がいい材料だけを集めるしかなくなる。時代の変化を直視せず、自力で考える力が乏しい人ならば、信念による「正しさ」の独善性が強さに見えたりするかもしれない。

 信念はしばしばタブーを必要とする。都合の悪いものをタブーとして、目を背けることが、信念の「正しさ」を維持するためには欠かすことができないからだ。そんなタブーの最大のものが、「正しさ」を検証することだったりする。検証されない「正しさ」は無敵だな。

 時代の変化を受けて考え方を変えることは自然なことであり、思想的な敗北ではない。だが、従来からの“進歩的”主張にしがみつく人が自力で考えを変えることができなければ、時代の変化に受け身となり、防御的になったりし、ますます保守的な対応に傾いたりする。信念と化した主張にしがみついているように見えるのは、哀れを感じさせる光景でもある。