望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

理想にしがみつく

 日本国憲法の第9条は素晴しい理想を掲げている。「戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認」を規定している第9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、続けて「2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とする。

 多大な人的被害を日本人にももたらし、空襲を受けた都市などで多くの人の日常生活が破壊された15年戦争の記憶が色濃く残っていて、もう戦争はこりごりだという実感を当時の多くの人々が共有したからこそ、この憲法が支持されたのだろう。「戦争を放棄」し、「陸海空軍その他の戦力を保持しない」で平和に暮らしていけるなら、素晴しい世界だ。

 が、米の軍事力で守られている中での戦争放棄と戦力の非保持だった。1945年以降は米の軍事力・経済力が世界で突出する状況が続き、その米の庇護(と監視)の中で日本は経済的な成長を遂げるとともに、軍事力の整備を抑制することができた。しかし、現在の世界で米の軍事力・経済力はなお巨大だが、欧州諸国以外の中国などの経済成長などにより、米国の“力”は相対的に低下した。

 素晴しい理想を掲げた憲法と現実の世界との“距離”は、冷戦後には一層大きく開いた。戦争放棄と戦力の非保持は崇高な理想であり、時代の変化にも色褪せることはない。だが、ユートピアにだけしか適合しない理想は、ユートピアには遠い現実世界においては無力なスローガンでしかない。

 崇高だが現実世界では無力な理想にしがみつく人々には、実際に起きている、理想に反する出来事を否定し続けることが必要になる。現実世界で起きていることに対応するには、現実的な行動が求められる。だが、崇高な理想にしがみつく人々は理想の実現だけが解決策だと決めつけるので、ますます崇高な理想は現実世界で無力さを増す。

 崇高だが現実世界では無力な理想にしがみつく人々には、現実は問題が多すぎる嫌な世界に見えるだろう。理想にしがみつかない人々にとっても現実は問題が多すぎる世界なのだが、現実の問題に対しては具体的な対応策を模索し、うまく行かなければ別の対応策を考えればいいだけだ。

 実現不可能な理想にしがみつくと、現実離れしていくしかない。ただし、崇高な理想にしがみついていれば、常に問題が多い現実を批判し、否定し続けることができる。そんな批判は無力であり現実を変えることはできないが、現実を批判する側で居続けることはできる。それはそれで気楽な立場だ。崇高な理想を掲げることで、自分は正しいと偉そうにもしていられる。