望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

法は神聖視すべきか

 日本では自動車は道路の左側を走る。この左側通行を採用している国は世界でほぼ3分の1で、残りの3分の2は右側通行を採用している。左側通行と右側通行の違いにより、交通事故の発生率などに差が出て来ることは考えにくく、どちらの通行方法が優れているかを議論しても、説得力がある主張は出てきそうにない。

 ただし、路上で左側通行と右側通行が混在しているとしたなら、正面衝突の可能性が飛躍的に高まり、交通事故が続出するであろうことは想像に難くない。路上における通行のルールを明確に定め、そのルールにドライバーが従って運転することで、路上の安全性は保たれる。日本では道路交通法により左側通行と定められている。

 左側通行が優れているから日本が採用しているわけではないだろうが、もし左側通行の信奉者がいて、「左側通行は倫理的だ」とか「左側通行は崇高な理念を現している」などと主張して絶対視し、左側通行を定めている道路交通法をも「絶対に変えてはならない」などと言い始めたなら、なんか変だなと多くの人は気づくだろう。

 左側通行を信奉することも絶対視することも個人の自由だが、それは一つの考え方に過ぎないということが、自分の考えを理想視するほどに見えにくくなる。さらに、個人が絶対視する理想を定めているからといって、社会のルールを定めているにすぎない法律をも絶対視する奇妙さは、当人にはなおさら見えにくくなるのかもしれない。

 憲法を始めとする法は、その社会のルールを定めているものでしかない。法は、人々の意識を反映するものではあるが、法は聖典ではなく道徳規範でも哲学書でもない。社会の変化に対応して書き換える部分もあり、私的殺人の禁止など書き換えられない部分もある。法は存在自体に価値があるのではなく、ルールを明確にして、社会の安定や安全などを維持することに役立つことに価値がある。

 だから全ての法は、変化する社会に対応して書き換え、常にルールを明確にしておかなければならない。逆走するドライバーが増えれば対応した規制を追加し、自転車事故が増えれば自転車の走行ルールを明確にする。そうした法の変更は、法の尊厳を貶めることではなく、有効に法が機能することによって、法の信頼性を高める。

 左側通行とは異なり、戦争放棄や軍事力の保有禁止は崇高な理想であり、素晴しい理念で普遍的な価値がある。永遠に滅びることはない理想でもあるだろう。だが、そうした理想を記しているからといって、法が絶対不可侵の存在になり、神棚に祭り上げられ、人々の日常から遊離した存在になり、社会に作用するルールを決めることができなくなったら、法としての機能を喪失する。