望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

高すぎる理想

 自分の抱いた理想の実現に向って、現実の世界が動いていく……とは限らない。むしろ、自分の抱いた理想がいつまでも実現せず、やがて、現実の世界はこんなものかと落胆し、時には現実に怒りをぶつけ、時には現実に愛想をつかしたりしながら、現実の世界と折り合いをつけて生きていくのが一般的だろう。

 しかし、実現しない理想を高く持ち続ける人もいる。その場合、理想は現実にいつまでも“裏切られる”わけだが、めげないで辛抱強く理想を堅持する。実現しない理想を持ち続けるためには、現実から目をそらすしかないだろう。だが現実から目をそらすことでのみ、持ち続けることができる理想は、空想の世界の産物になる。

 そうした理想が、例えば、社会を変えたいというものであったとすれば、現実をよく見て問題点を抽出することから始めなければならないだろう。だが、理想を大事にするため現実から目をそらすと、その理想と社会との接点が希薄になり、相互の距離は拡大していく。社会を変えたいという理想が、現実の社会から浮き上がってしまっては、実現可能性はますます少なくなろう。

 一方で、実現しない理想を持ち続ける人は、現実を批判し、否定することを続けることができる。理想が実現しない現実の世界は悪い世界であるとして、理想が示す“正義”の側に立つ批判者を演じる。理想を実現することよりも、理想が実現しないことにより正当化した現実批判に熱心になったりする人もいたりする。だが、批判を激しくしても、理想の実現に近づくことはない。

 社会から浮き上がった理想を根拠にするなら、現実の世界を永遠に批判し続けることもできよう。だが、そんな批判は、理想を共有する人にしか共感されまい。いくら高邁な理想であっても、現実の世界に対して無力な理想は、壁に飾った絵画と同じだ。鑑賞用の理想を振り回して現実批判を重ねても、現実を動かすことは難しいだろう。

 最初は現実に根ざした理想であっても、時とともに現実が大きく変化することがあり、理想が浮き上がってしまうこともある。理想だけを見ていては、変化する現実との距離を見定めることは難しい。現実の変化を見定めてこそ、現実から理想が浮き上がっていることが認識できる。ただ、現実の変化にも「揺るがない」理想をありがたがる人がいるので、そんな理想も延命できる。

 実現することよりも現実批判のために掲げられる理想は、どんなに高邁であっても、呪文の同類に化してしまう。現実から遊離し、現実に対して無力となった理想は、学問の研究対象になるのがせいぜいか。