望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

記憶と記録

 例えば、戊辰戦争は1868年1月に始まり、翌69年5月の箱館戦争終結したが、その体験者はもう存命していないだろう。戊辰戦争の体験者の記憶は、今も受け継がれているのだろうか。戦闘に参加した人、戦闘に巻き込まれた人、政治・経済的混乱で困窮した人など、体験といっても様々だろうが、150年近く経ったのだから、体験を記憶として受け継ぐことはもう難しい。

 明治時代なら戊辰戦争はまだ“身近”な出来事であり、多くの人々は覚えていたから体験者の記憶を受け入れやすかっただろう。だが、年月とともに世代は入れ替わり、社会や国際情勢も変化して人々の意識も変わる。記憶の伝承には、話し手と受け手との間に時代感覚など共感できる背景が必要だが、それが薄れたり欠けると、記憶の伝承は難しい。

 体験者の記憶の伝承が困難になっても忘れ去られるわけではない。戊辰戦争など歴史上の出来事は事実が抽出され、記録になる。体験者の記憶も、文字化されたものは当事者の証言記録として残っていく。しかし、記録になることができなかった体験者の記憶は、歴史の中に埋もれてしまう。

 また、記憶が証言記録になる時に、凄まじい体験による驚愕や恐怖などに伴う感情や実感など、文字で表現しきれなかったものも抜け落ちる。体験者の言葉からにじみ出る恐怖や悲しみなどは、聞いている人に伝わるものだが、それらを証言記録の文字だけから読み取るためには、読み手に想像力や共感する力が必要になるだろう。

 体験者が本当に伝えたいのは、凄まじい体験による驚愕や恐怖などに関わる記憶であったりするのだが、個人の感情などを他人が受け継いで行くことは、そもそも簡単ではない。例えば、戦災の体験者の記憶を、平和な太平の世に育った人が伝承することは困難だろう。だが、記録なら当事者ではなくても受け継いで行くことができる。

 震災や戦災の体験者の記憶を伝えて行くことは大事だが、長い目で見るならば、記憶の伝承より、より多くの正確な記録を残すことが必要だ。文字で残された体験者の証言記録を読む後世の人は、何が起きたのか事実を知り、震災や戦災が今後も起きるとすれば、体験者の感情をも想像できる共感力を持つだろう。