望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

何と戦うか

 米映画のキャラクターの一つである「プレデター」は地球外生物で、光学迷彩で自らを透明化して地球で人間を襲う。透明化している上にプレデターは腕力が強く肉体的能力にすぐれ、地球人は劣勢だが、映画では最後に地球人が勝つ。見えない強力な敵が近くにいるとすれば、それは恐怖を増大させる。映画はヒットして続編が何作も製作された。

 現実世界でも、武器を隠し持って強力な殺傷能力を有し、大量殺人を辞さずと決意しながら、傍からは、それと見えず、どこに潜んでいるのか分からない戦闘者がいる。襲われてから初めて、存在していたことが判明するのだから厄介だ。要人を狙うテロリストよりも、民衆の無差別殺人を行うテロリストのほうに人々は、自分も標的になると不安や恐怖を感じるだろう。  

 「テロとの戦い」という言葉では、テロにより高められる社会的な動揺に対抗して人々が、それまでと変らない日常生活を送るという意味が強調されることがある。テロによって社会が変えられることに抗い、テロに負けないなどと言ったりする。しかし、見えない強力な戦闘者がまだ、どこに潜んでいるのか分からないという不安が続くなら、日常は変質せざるを得なくなる。

 テロが起きた後に公権力が非常事態宣言を行えば、それまでとは一変した日常になるのだから、人々が「テロとの戦い」で、それまでと変らない日常を送ろうとしても、制約を受ける。数年前にフランスでは非常事態宣言で警察権限が強化され、令状なしに家宅捜査を行い、必要によって人や車の交通を禁止し、多くの人が集まる場所を閉鎖するなどが行われた。

 テロによって、それまでと同じ日常を送ることができなくなったフランス。日常が変えられたという意味では「テロとの戦い」にフランスは敗れたといえるが、見えない強力な戦闘者がどこに潜んでいるのか、どこから入って来るのか分からない状況では、テロの可能性を排除することはできない。警戒を強めることをもって、テロに負けたとすることには無理がある。

 テロがあっても、それまでと変らぬ日常を送ろうとするのは、テロに反発する意識的な行動だ。だが、人々が変らぬ日常を送ったところで、見えない強力な戦闘者が次の攻撃を思いとどまるわけではない。さらにいえば、中東やアフリカなどの国々では大規模中規模小規模のテロが頻発し、社会の有り様は変えられている。先進国だけが、テロによっても日常が変えられないなどということが有り得るはずもない。

 すでに起きたテロと戦っても無駄だ。戦うのは、次に起きるテロを実行する組織とであり、見えない強力な戦闘者とであろう。ただ、テロを戦いの手段として容認する組織や人々がいる現実世界の不均衡を見据えるなら、テロを生み出す構造にも目を向ける必要があるが、そうなるとフランスなど欧州諸国は中東やアフリカの現状に歴史的責任があることも見えて来る。