望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





憲法はどこを向く?

 1865年に下院で可決された米国憲法修正第十三条の条文には、「奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とする時を除く」とある。奴隷解放宣言後も奴隷制を合法としていた州があったが、この憲法条文によりアメリカのすべての州で奴隷制が違法となった。



 スティーブン・スピルバーグ監督作品「リンカーン」で描かれるのは、この修正第十三条を下院で可決させるために、与党の共和党議員の造反を防ぎつつ、可決に必要な票を得ようと野党の民主党議員の切り崩しを進めさせる現実主義者としてのリンカーン大統領の姿だ。



 映画なので、どこまでが史実なのかは判断できないが、野党の民主党議員の切り崩しには、ガチな議論では誰も意見を変えないからか、退任後のポストが提供されたりする。また、南北戦争の和平交渉と絡め、奴隷制廃止への関心を高まらせている間に、奴隷制廃止を法制化しようとする。崇高な理想を現実化するには、合法的に、あらゆる手段を駆使すべきことを示しており、当時の米国議会の議論のくだらなさを含めて興味深い仕上がりとなっている映画だった。



 米国憲法修正第十三条により全米で奴隷制が違法化されたように、憲法には国の姿を規定する力がある。米国民に向けて「奴隷制を行ってはならない」と規定するのは法律であり、憲法は「アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない」と国および州に命令する。



 現行の日本国憲法を変えようと自民党や新聞社から提示された改正草案は、国家主権を強める気配が濃厚なものばかり。例えば、産経が発表した「国民の憲法」なるものの特徴は、▽日本は立憲君主国と国柄を明記▽前文で独立自存の道義国家謳う▽天皇は元首で国の永続性の象徴▽皇位継承は男系子孫に限る▽領土、主権、国旗・国歌を規定▽国の安全、独立を守る軍を保持▽国家の緊急事態条項を新設▽家族の尊重規定を新設▽国民は国を守る義務を負う▽参議院を特色ある良識の府に▽地方自治体に国との協力を明記▽憲法裁判を迅速化させる(同紙サイトから)。



 「国民主権より天皇元首かよ」「憲法で国旗・国歌を決めるのかよ」「家族の尊重って、憲法に道徳を入れるのかよ」「国を守る義務って徴兵制か?」「地方自治体に国との協力義務って、霞ヶ関の官僚が大喜びだな」など、大見得を切って新聞社が打ち出したにしては内容がアナクロで、改正できたとしても、こんな憲法では歴史の批判に耐えられまい。数十年後には、歴史のトピックとして笑い話になりそうだ。



 現行の日本国憲法平和憲法ともいわれるが、実際には日本は世界でも有数の軍事力を有しているように、憲法の条文と、それが現実に反映されているかどうかは別問題だ。そんな日本で憲法を改正し、例えば憲法に「家族を尊重しろ」と入れても、うまく行かない家族はうまく行かず、条文と現実との乖離はなくなるまい。そんな時に国家は、家族の尊重を義務化し、強制するだろう……国から人々に命令する「憲法」では、人々は丸裸だ。