望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

迷走する憲法観

 5月3日の憲法記念日に合わせて毎年、新聞などは憲法についての記事を掲載し、各地で憲法を巡る集会が開かれ、その様子はTVなどでも大きく扱われる。だが1、2日後には憲法に関する記事はほとんど姿を消し、TVではUターンラッシュが大きく扱われるようになる。憲法は、数ある季節ネタの一つになってしまったようだ。

 憲法は国の基本的在り方を決める最高法規であるとされるが、日本人自身が主体的につくりあげたという実感が乏しいのも事実だ。日本国憲法だけではなく、大日本帝国憲法も同様で、どちらも国家観を巡って日本人による広範な議論から誕生した憲法である……とは言いがたい。

 つまり、日本という国の基本的在り方について、日本人による真剣な議論が足りなかったンじゃないかという疑問が、憲法論議の陰に潜んでいる。日本という国家意識が日本人に定着したのは維新以降の、中央集権による明治政府が誕生してからであろう。日本という国の在り方を巡り自由民権運動などはあったが、それらが憲法の内容に反映していたとは見えない。

 大日本帝国憲法のもとに運営された日本という国家は隆盛をとげたものの、1945年に敗戦し、占領されて、再び主権を回復して独立国となるまでに7年を要した。ボロ負けの敗戦により国家主権を失ったことで、大日本帝国憲法による国づくりには重大な欠陥があることを日本人は痛感し、認識せざるを得なかった。

 敗戦から2カ月ほどでマッカーサーから急かされて日本政府は憲法改正に動き始めたが、大日本帝国憲法の影響下から抜け出すことができない案しかつくることができず、「マッカーサー草案」を受け入れて日本政府案を作成し、それが議会で承認された。ここでも、日本人による広範な議論を経て、1945年以降の日本という国の在り方を決めた……とはいえない。

 とはいえ、日本国憲法を日本人は受け入れた。それは、敗戦から1年足らずの当時は戦争に対する拒否感・嫌悪感が高まっていたからだろう。二度と戦争はごめんだという気持ちが強く、個人を縛る統制国家ではない、個人の自由を尊重する国家に期待したからかもしれない。そして、米軍の駐留が続く中、日本は経済的に発展した。

 日本における憲法論議で今、日本人自身による日本という国の在り方を巡る広範な議論が沸き起こっているのだろうか。王制に対する市民革命を経ていないが、日本人は近代憲法を手にすることができた。その憲法を政党や政治家任せにせず、日本人自身がどうするのかが問われている。だから、護憲も選択肢として、今後どのような憲法を日本人が持つかということは、日本人の政治的な成熟の度合いを示す。