2006年のイスラエルの軍事行動は明らかな過剰反応だった。「リタニ川以南はイスラエルが統治すべき」という軍部の暴走を非力な政治家が抑えられなかったというわけではあるまい。チャンスを待っていたところに条件が整い、軍事行動に踏み切る切っ掛けを探していた。そこでシーア派組織ヒズボラがイスラエル兵を誘拐、「それ、始めろ」と動き出したというところだったか。
イスラエルが待っていたチャンスとは、イスラムの分裂である。イラクでのシーア派聖地アスカリ廟爆破でシーア派・スンニ派の直接的な暴力の応酬が顕在化し、先鋭化した。もはやイスラム教圏内には中立的なポジションの政権はなくなり、どちらかの立場に立たざるを得ず、イランを除く大半がスンニ派政権であることから、各国はシーア派組織ヒズボラへの連帯・支援は表明できない。イスラエルはシーア派武装組織を攻撃しているだけだと言い続ける…。
過剰なイスラエルの暴力は、イスラエルの人々が現実を支配するのは「力」だと身にしみて知っているからだろう。別の言い方をすると、現実の問題、目の前にある問題の解決は人間の手によってしか行うことが出来ないと考えているからだ。さらに別の言い方をすると、神にすがっても現実の問題の解決にはならないと知っている。神の助け・救いなど、ないと知っている。
ユダヤ人を変えたのはホロコーストと、その後のイスラエル建国だ。ヨーロッパで生きてきたユダヤ人は神に祈ったであろうが、ナチスドイツが敗戦するまで虐殺は止まらなかった。パレスチナにイスラエルを建国して直面したのは、自分の身は自分で守るしかないという現実だ。
「神などいない」と宗教を捨てることは、同時にユダヤ人でなくなることを意味する。宗教は捨てられないので、宗教(神)は現実に対しては無力であることを前提に生きることしかユダヤ人には残されていなかった。現世では神の加護がないと理解すると、戦争に勝つには、軍事力で相手を上回り(できれば圧倒的に)、周到・緻密な作戦で展開することが重要だとなる。
アラブの人々は、まだ、神の加護を期待しているように見える。イスラム教が聖と世俗を分かちがたい宗教だということもあるが、現実的な軍事力の劣勢から目を逸らすために神を持ち出し、また、現実への憤怒を、いつか加護があると神の名を称えることで埋めているようにも見える。別の言い方をすると、イスラム教徒にとっての神は「現実的」存在なのかも知れない。
一方は、神は人間を見守ってなどいない単なる祈る対象とし、現実問題の解決は「力」だと行動する。他方は、神が人間を見守っていると信じ、来生を信じて自爆する。そこにあるのは、過去の大量の死によって神の無力さを知った人々と、現在の大量の死の解決・救いを神に求める人々だ。