望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

周回遅れの前衛

 前衛であり続けることは難しい。前衛音楽や前衛美術など、既成概念の枠から飛び出した新しい表現をつくりだしたとしても、それはたちまち新たな1ページを与えられて既成概念に加えられ、体系化される。新しさだけで前衛を気取っていた表現は、いっとき注目されて、やがて新鮮さが失われると色褪せていく。目新しさが失せた後にも、表現として自立できるものが、前衛の座を失っても、残っていく。

 政治にも前衛がある(あった?)が、こちらも前衛であり続けることは難しい。政治で前衛であるには、新たな視点による問題提起が不可欠だ。さらに、政治に新しい表現や新しい話法を持ち込んだり、新しい運動方針に基づいて新たなネットワークをつくって、新たな政治運動形態で活動することが、政治における前衛の証しになる。

 政治における前衛は、議会を目指さず、社会運動としての政治運動であったりもしようが、現実を変える力を得るという意味では、議会を目指すことが自然だろう。本当に前衛であるならば、新たな発想による新たな選挙戦術で新たな選挙戦を闘うだろう。既存政党の組織論や選挙戦術とは一線を画し、斬新で新しい運動形態となる。なぜなら、前衛とは既存の方法論にあきたらない精神の発動だからだ。

 しかし、前衛が前衛でいられる時間は短い。新たな組織論、新たな選挙戦術などは、それが効果を発揮して有効だと見なされたなら、すぐに模倣される。ただし、模倣されるのは前衛の精神ではなく、前衛が編み出した方法論の中から利用可能な部分だけだ。そして前衛は、ちょっと変ったやり方として、既成の枠組みに加えられて秩序の一部になる。

 軍事で前衛は最前線で戦う戦闘部隊のことだが、政治で前衛党といえば、人民を指導する政党のことだと共産主義ではいう。共産党なんかに勝手に指導されたくないと思う人もいようが、前衛党と規定することで共産党は独裁を正当化する。プロレタリア独裁は正当であり、それは、プロレタリアの政党である共産党の独裁によって実現されるという発想だ。

 前衛というものは、社会に受け入れられたときから既成秩序の一部となり、斬新さは色褪せるのだが、前衛という装いを手放そうとしない人たちがいる。真に前衛であり続けるには、不断に新しい価値観、新しい表現を打ち出すことが必要だが、そんな飛び抜けた能力を持つ人や政党は存在しない。短い期間だけ輝いて、やがて消えていくのが真の前衛の宿命なのかもしれない。

 前衛という装いを手放さない人や政党は、そういう社会的ポジションに執着があるのだろうが、たまにライトを浴びたりもする。トラック競技で周回遅れとなっている人が、先頭を走るランナーより前を走る状態になって、観客の注目を浴びていると誤解するような状態だ。周回遅れになっていることを軽く見て、誰よりも前を走っている気分を楽しむのかな。