望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

新聞社と謝罪

 70年以前の行為について、人はどこまで責任を負わなければならないのだろうか。例えば、70年以前に殺人の罪を犯した人が、裁判にかけられて有罪判決を下され、刑期を終えるとともに、個人の資産から損害賠償も行っていたならば、社会的には責任を取ったと見なされよう。もちろん、道義的な責任は生涯、消えることはないが。

 70年以前に殺人を犯した人が亡くなるとともに、その殺人に関する罪は消える。被害者の遺族が、殺人を犯した人の子や孫に対して、70年以前の殺人の責任を問うことはできない。現場におらず、殺人を止めることが不可能だった人達には責任はない。道義的な責任もない。

 しかし、人ではなく会社であるならば、70年以前のことであれ、社会に大きな不利益を与えた邪悪な行為の責任はついて回る。責任を認めて社会に謝罪し、邪悪な行為の当事者や、それを容認した経営陣を会社から追い出したとしても、同じ社名で営業している限り、負のイメージはついて回る。70年以前を知っている人達や道義的責任を問う人たちが少なくなれば、次第に忘れられていくかもしれない。が、それで道義的責任が消えたわけではない。

 70年以前に日本は国策を誤り、日本人のみならず近隣諸国の人々にも多大の損害を与えた。日本人は300万人以上が死に、アジア・太平洋諸国では2000万人以上が死んだとされる。そうした戦争に突き進んだ国家体制を支える一翼を担ったのが日本の新聞社だ。華々しく戦果を書き立て、人々の戦意を煽り、国策への協力を読者に促した。

 今の日本の新聞社は、民主主義や自由、人権など普遍的とされる価値観を尊重し、それらを擁護するためにも権力の監視を怠らず、自由な報道・自由な言論を駆使して、二度と日本が国策を誤ることがないように励んでいる(のだろう)。ただ、70年以前に同じ題字の新聞が何をどのように報じ、どのような論を掲げていたかを、新聞社自体が忘れがちであるようにも見える。

 毎年のことながら8月は、先の戦争に関する記事が大量に紙面を埋める。しかし、その中に新聞社自体が戦争に、どのように関わったかという具体的な検証の記事を見ることは、あまりない。どのように戦時体制を支え、戦意を煽ったのか。国際連盟からの脱退をどう伝えたのか。中国やアジア各地への日本軍の侵略をどう伝えたのか。

 日本の新聞社には、先の戦争に対して道義的な責任がついて回る。当時の記事や社説を引っ張り出して具体的に検証することは、自社のマイナスイメージを喚起することにもなるので消極的なのかもしれないが、日本政府などの戦争責任を熱心に追及する記事や、反省やお詫びの明確化を求める論などを見るにつけ、日本の新聞社は自らの責任には蓋をしているンじゃないかと映る。新聞社こそ、毎年8月には自らの責任を検証し、読者やアジアの人々に謝罪すべきかもしれない。