望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

国家の所属から脱した人々

 周囲を海に囲まれた日本の陸上には他国との国境はないが、県境など行政上の境界は存在する。県境は誰でも自由に通ることができるが、国境ではチェックがあることが多い。江戸時代には多くの藩があって藩境には関所が置かれ、旅人は厳しく詮議された……と時代劇などで見た印象から思いがちだが、実際には関所は少なく、人々は自由に行き来していたという。

 境界は人為的に定められる。国境は国家権力の支配の範囲を示し、そこに含まれる人々が国家に所属することも示す。そうした境界に閉じ込められて生きることを疑問に思う人は少ないだろうが、人類は様々な国家が誕生する遥か前から地球上で生きてきた。自由に移動していた人類が国家の成立によって、国境により隔てられて生きることになった。

 国境に閉じ込められて生きることを疑問に思わないのは、多くの人にとって国境は所与のものであり、また生活圏の中になかったからだろう。存在が容認されているものを否定するには何かの切っ掛けが必要であり、また、見えないものの存在を意識するには、経験や情報が必要になる。

 国境は国家権力の支配範囲を示し、人々の行動を制約するが、巨大化した資本の経済活動を制約するものではなくなった。国家権力には巨大化した資本の活動を統制することはもう困難で、むしろ、巨大資本の経済活動を手助けしたりする。巨大資本のボーダーレスの経済活動は、グローバル化として賞賛されるように仕向けられたりもする。

 人々も国境を越えることはできるが、厳密な手続きや審査が伴う。人々は国家に所属するからである。そうした世界秩序のルールの中で、国境を越えた経済活動による富は先進国にもたらされ、植民地だった頃の支配構造から脱却できない国々には混乱がもたらせられ、国家破綻に追いやられたりする。

 そうした中で、“グローバル人材”などでは全くない一般の人々が、国境を無視し始めた。中東やアフリカから欧州に殺到する移民は、自分の意思で国境を越えようとする人々である。動機は様々だ。戦火から逃れた難民だけを欧州は受け入れるとしているが、社会インフラを整備する富を収奪された旧植民地の人々には、そうした富で栄えている欧州に移動することに幾分かの正当性がある。

 欧州に殺到する移民・難民が示しているのは、欧州の旧植民地国家の行き詰まりだ。そうした国家の実質的な支配範囲は縮小し、国境は消滅する。人々が国境に関係なく自由に移動できるようになった時、豊かな国を目指すのは自然なことだ。欧州が同情すべきとする難民だけを選別しようとしても、続いて「次のシリア」が出現するだろうから、難民増加には歯止めが利かない可能性がある。

  欧州に殺到する移民は、世界史的な大きな変化を表している。国家に所属させられていたはずの人間が、自由に国家を選択できるようになった。国家は、巨大化した資本を統制できず、イスラム圏の人々の反乱を抑えることができず、人々を支配下にとどめておくことができなくなった。国家は変質せざるを得なくなっているが、人々の自由をより尊重する方向へ向うのか、強権で支配を強める方向へ向かうのか。21世紀の歴史の試行錯誤は始まったばかりだ。