望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

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 ジャーナリズムは真実を探求すると言われる。隠蔽されている不祥事を暴き、企業・団体の発表や官僚、政治家らの発言の信憑性を検証し、社会に存在する様々な問題を掘り起こして可視化したりするのがジャーナリズムだとされ、真実の追求が正義の追求でもあると時には意識されたりする。

 「真実は一つ」であるなら真実は絶対的なものとなり、そうした真実を追求するジャーナリズムを正義の追求者とみなす人がいることも理解できよう。だが、常に「真実が一つ」であるのか。むしろ立場によって複数の真実が主張されることは珍しくなく、ジャーナリズムの主張する真実も批判の対象になる。

 真実が立場により異なるのは、立場によって物事が違って見えることからだ。様々の角度から取材して多くの情報を集め、それらをつき合わせて全体像を浮かび上がらせ、報じるのがジャーナリズムだが、立場によって異なって見える真実とジャーナリズムが報じる真実(全体像)が、必ず一致するとは限らない。

 ジャーナリズムが報じる真実(全体像)に対して、一つの解釈に過ぎないとの批判は様々な立場から発せられる。真実は立場によって様々あると認めるとジャーナリズムの役割・機能・評価は限定的なものとなる。謙虚なジャーナリズムがあれば、そうした批判を認め、そうした批判と共存しようとするだろうが、まだ謙虚なジャーナリズムはあまり見かけない。

 インターネットが大衆化したことで、様々な情報や意見を誰でも目にすることができるようになった。ジャーナリズムが真実の主張を独占することはできなくなり、立場によって様々な真実があるとの理解も共有されるようになった。こうした変化は、社会におけるジャーナリズムの役割を変化させる。

 様々な情報、意見がインターネットに溢れる世界で、ジャーナリズムの役割は何か。真実の探求を掲げ、正義を振りかざすことは批判や反感を招くだけだろう。多くの情報や意見が溢れる日常でジャーナリストに求められるのは、「針路」を示す手がかりを提供することだろう。

 真実は常に一つではない世界で、社会に存在する不祥事や嘘、隠蔽などを世間に晒すことはジャーナリズムに引き続いて求められる。ジャーナリズムが真実の追求を放棄する必要はないが、その真実が絶対的なものではないと自覚し、合理的な説明をどこまでも追求する必要がある。満足な説明ができない対象には説明責任を追求し、虚偽の説明があれば糾弾する。真実をジャーナリズムが独占できた時代は終わった。