望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

安売りされる感動

 五輪の陸上や水泳などの長距離競技で、他の選手がゴールした後、大きく遅れた1人の選手が懸命にゴールを目指していると、観客から盛大な声援が送られたりする。あきらめずに最後まで力を振り絞って競技を続ける姿に、声援を送りたくなるのは自然な気持ちだろうが、それは感動しているのだろうか。もし感動だとするなら、その選手は観客に感動を与えたことになる。

 最近、大舞台に臨む意気込みを訪ねられたスポーツ選手から、「感動を与えたい」との言葉を聞くことが珍しくない。活躍する姿を見て喜んでほしいという程度の意図なのだろうが、「感動を与えたい」などと言われると、ありがたく感動させてもらいますと期待するか、与えてなんかいらねえよと反発したくなる。

 選手は、上から目線で言っている気はないだろうし、観客のマインドをコントロールするつもりもなく、コントロールできるとも思っていないだろう。でも、選手は「感動を与えたい」と言いたがるようになった。「感動を与える」と公言することで、必ず成果を出すと自分を奮い立たせているのかもしれないが、それなら「期待に沿うように頑張ります」と決意を込めて言えばいいだけだ。

 中には、日本人に「感動を与えたい」などと大きなことを言う人もいたりして、どれだけの感動を与えてもらえるのかと(さして期待もせずに)見ていると、結果はさっぱりで、感動よりも肩すかしを与えられることも珍しくない。感動を期待して見ていた側は、期待した感動の分だけ、負けた選手が色褪せて見えるのかもしれない。

 「感動を与える」の感動は勝利を意味する。もちろん、大差のビリでも懸命にゴールに向かう姿にうっかり感動する観客がいるかもしれないが、声援を送る皆が感動しているわけではない。大差で離されながら懸命に頑張ってゴールを目指す姿より、1着を目指してデッドヒートの中で懸命に争う選手の姿のほうが感動につながろう。

 ただ、勝利する姿が必ず感動と結びつくわけでもない。五輪では次から次と競技が行われるので観客は、勝利した選手にいちいち感動してはいられまい。それに、自分が応援する、例えば自国の選手が勝利した時には感動するが、他国の選手が頑張って勝利した時には感動しないなどという便利な感動の使い分けは難しいだろう。

 引退したスポーツ選手に「感動をありがとう」の言葉が送られたりするので、どうやらプロ・アマ問わずスポーツを見る側は感動を求めているらしい。感動は特別な感情ではなく、日常にありふれた感情の一つと位置づけられたのだろうが、安売りされすぎている気配もある。デフレが続く日本では、感動などの感情表現も安売りされる?