望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

伝えるものは論理

 日本人で戦争を経験した人々が次第に少なくなり、戦争の“現実感”が風化することを危惧するマスコミは、戦争の記憶の伝承が大切だと強調する。悲惨で苦しかっただろう個別の様々な具体的な経験は歴史を記録する豊富な資料になるため、後世に残すことは必要だ。しかし、個別の体験を伝えることだけが、戦争体験を伝承することではない。

 個人の様々な経験を伝えるという作業には限界もある。体験を伝えるとは体験者の実感(感情)を伝えることだろうが、それは聞き手に想像力と共感力を要求する。聞き手と話し手が知見、感情などで共有する部分が多いほど伝えやすいが、生活実感の隔たりが大きい場合は伝えにくいだろう。つまり、世代を経るほどに実感を伝えることは簡単ではなくなる。

 隔たりとは世代間だけではなく、例えば、国が異なれば生活実感に大きな隔たりがあろうが、戦争による悲惨で苦しい体験となれば、人間として共感できる部分が多いはずだ。でも、第二次大戦の後も世界で戦争は起き続けているのに、そうした戦争の実態を伝えることも使命であるはずのマスコミは、日本人の戦争体験の伝承を重視する。

 日本人が関わった戦争が他の戦争と異なる点は核兵器が使用されたということであり、その記録や記憶を伝承することは重要だ。だが、核兵器の使用は先の戦争の一部分でしかない。戦争は個人にとって全てが特別な体験であり、語り伝えるべき重みを持つ体験であろうが、個別の体験から見た戦争と全体としての戦争が同じものであるとは限らない。

 個別の戦争体験の伝承は、悲惨さや苦しさを強調しがちだ。そうした伝承から導き出されるのは、戦争への感情的な拒否感であり、非戦論の有力な支えになる。第2次大戦後に日本人が直接巻き込まれ、日本が戦場になる戦争がなかったから、戦争に対する嫌悪感をかき立てるために、悲惨で苦しかった戦争体験を伝えることに励むのかもしれないな。

 戦争は否定されるべきものであり、起こらないほうがいいに決まっているが、人類は常に世界のどこかで戦争を続けて来た。人々にとっては悲惨で苦しいだけの戦争が根絶されないのは、全体としての戦争には個人の感情とは別の論理が働き、方法論として戦争を肯定するからだろう。それは、個人の戦争体験の伝承からだけでは見えてこない。

 悲惨さや苦しさなど個人の体験を伝えることに偏重すると、「戦争はいやだね」と拒否感は再生産されようが、世界のどこかで常に戦争が続き、世界では戦争が容認される場合があるという事実から目をそらすことにもつながる。個人にとっては悲惨で苦しいだけの戦争が世界では起き続けている理由を考えるためには、個人の戦争体験だけでは不充分なのだ。

 個別の経験、事実を総合したところに一般化された論理が生まれる。日本人の個別の戦争体験から、一般化された戦争否定の論理が生まれたのなら喜ばしいが、戦争への拒否感を再生産するにとどまっている。個別の体験の伝承には限界があるが、一般化された論理なら世代を超え、国境を越えて理解されやすいだろう。個別の戦争体験の伝承にこだわり続けるのは、戦争否定の論理を構築することに日本人が失敗していることの反映でもある。