望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

雨が降っているから天気が悪い

 「雨が降っているから天気が悪い」とか「晴れているから天気が良い」などの言葉は正しい(間違ってはいない)であろうが、少し考えると「そんなこと、当たり前じゃないか」と気がつく。論理的な装いではあるが、表面的なことしか言っておらず、新しい発見は何もない。

 間違ってはいないから正しいと認めざるを得ないという言説は珍しくないのだが、底が浅く表面的であることを誰もがいつも意識するわけでもない。いちいち気に留めないし、科学的な装いであったなら、疑う気持ちも薄れがちだ。そこに「雨が降っているから天気が悪い」とか「晴れているから天気が良い」などの言葉がまぶされると、ありがたく拝聴することになる。

 この種の、否定できないことを積み重ねて、論を展開し、聞き手を誘導するやり方は意図的に行われると意外に影響力を持つ。途中に飛躍が含まれることが多いが、「当たり前」の積み重ねに挟まれていたりするので、気づきにくい。耳にしたり目にする言葉に対して、客観的な検証を常に誰もが行っているわけではないからだ。

 「天気が悪いから雨が降っている」とか「天気が良いから晴れている」などの言葉なら、奇妙な言い方だと気がつきやすいだろう。それは、天気の良し悪しは個別の気象現象から判断するもので、逆ではないからだ。現実をなぞっていることでは同じなのだが、「天気が悪いから雨が降っている」では、判断の結果が先に来ているので違和感を生じさせる。

 「雨が降っているから天気が悪い」式の言説は、社会問題や経済問題、国際問題などを専門家が論じる時にも用いられることがある。論じている問題に対する知識がある受け手なら、「こいつは当たり前のことしか言ってないな」と気がつくだろうが、判断能力が乏しければ鵜呑みにしたりもする。

 問題は、「当たり前」の積み重ねに飛躍が挟まれている時に、それに気がつくかどうかだ。「当たり前」のことだけ言っている論を受け入れることは、退屈ではあっても害はないだろうが、「当たり前」に挟まれている飛躍も鵜呑みにすると、偏った見方に誘導されることになる。

 「雨が降っているから天気が悪い」式の言説に含まれている飛躍を見極めるには、論じられている問題に関する知識を増やすことしかない。面倒で時間がかかるのだが、鵜呑みをしない判断能力を身につけないから、誘導されるのだ。「当たり前」を積み重ねて読み手の同調を促す言説に、うっかり誘導されたくないのなら自力で判断応力を身につけるしかない。