望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

定義を共有する

 例えば、民主主義について議論(対話)する時に、一方は民主主義を善なるものと位置づけ、他方は民主主義は一つの政治制度とするだけだったら議論は深まらないだろう。民主主義を善とする人は、民主主義に対する批判の全てを、善なるものに対する批判として拒絶するかもしれない。

 対話が成立するには、言葉の定義を共有することが前提となる。具体的な事柄に関わる言葉の定義なら、事実関係などに基づいて個人による認識の違いを修正することができるだろうが、抽象語になると、そこに善悪や正邪などの価値判断を含める人もいて、定義を共有するための議論が平行線のままで推移したりする。

 善や正義についての解釈が一つであれば、まだ議論(対話)は成立しやすいだろうが、立場によって善や正義の解釈は異なる。その異なる善や正義の概念がそれぞれの立場の正当化のために使われると、言葉の定義をめぐる議論が、それぞれの立場の正当性を争うことにもなる。つまり、妥協を行うことが難しい。

 抽象的な概念について話す時には、定義を共有しなければ議論(対話)は成立しない。定義を共有することは、主観に頼る議論を抑制する。言葉の定義をめぐって議論することは遠回りのようにも見えるが、言葉の定義を共有しないままの議論では、双方の言いっ放しに終始したりすることも珍しくない。

 抽象的な概念が重なり、例えば、「神にとっての善や正義」などとなると更に定義が困難になる。善や正義という抽象語の定義に加え、神の概念の共有が必要になる。集団や個人がそれぞれに異なる神を崇めていたりする場合には、神の概念の共有は困難だろう。

 「神にとっての善や正義」を語る人の言うことが真実か、更には、神の考えを人間が知ることができるのかという疑問が生じる。「人民にとっての善や正義」とか「民族にとっての善や正義」も同様で、神や人民、民族などが有する価値観を個人や集団が“代弁”する場合には、真偽の検証が困難であると同時に、主張する側の主観との区別が困難だ。

 善や正義は絶対的な価値とされることが多いが、その定義は個人や集団により相当の幅があったりする。だから、絶対的な価値とする善や正義を振りかざすためには、その定義を独占することが都合がいい。個人や集団の善や正義を押し付けるためには、定義を共有せずに個人や集団が定義を独占することが好都合だ。そこでは一方的な押し付けがなされ、議論(対話)は必要とされない。